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  • 4、市河米庵と江戸の唐様

    4-1 市河米庵

     

    今週のテーマは「市河米庵と江戸の唐様」です。
    江戸時代には幕府の儒学政策と黄檗僧の渡来などによって、明末清初の中国文化が江戸の市井にももたらされました。

    浅草の八百善をはじめとする料亭には多くの文人たちが集まり、煎茶や詩文、書画などを楽しんでいます。
    こうした場所で大田蜀山人や亀田鵬斎、市河米庵、寛斎、菊池五山などといった文人が互いに刺激し合いながら交流しました。

     

    今回は市河米庵(1779-1858)を紹介します。

     


    ※1

     

    これは書を論じた詩文をダイナミックに揮毫した米庵晩年の作です。
    書きなれた詩文なのでしょう。迷いなく進む筆運びは堂々としています。

     

    初めは米芾の書に惚れ込み「米」の字を号に取りました。
    同時に、長崎に旅に出た際には程赤城や胡兆新などの清の人たちと交流して同時代の中国文化を肌で感じ、その筆法を学んでいます。

     

    米庵は中国の文物や書画などを積極的に蒐集して文字を双鉤塡墨したり、中国の書論を丹念に読んだりすることによって書法を習得していました。

     

    米庵のコレクションを集めた『小山林堂書画文房図録』には260余件の中国書画や文房具などが図入りで掲載されています。
    これは明の黄道周の作品です。

     

     

     

    丁寧に書き写しそれに解説を付け、小さな落款部分は拡大して載せるなど細部まで気を配って作られています。
    できる限り実物に近く、精巧な再現を求めたのは米庵のこだわりなのでしょう。

     

    もう1点隷書の作品を紹介します。
    江戸時代に中国から渡来した帰化植物である「秋海棠」を詠んだ詩を書いたものです。

     


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    そしてこれは『小山林堂書画文房図録』に掲載される清の徐葆光の作品です。

     

     

    米庵の書とよく似ています。
    米芾に私淑した米庵ですが、こういった明清時代の書を積極的に取り入れていることがわかります。

     

    米庵の書は実用的で広く用いられ、明治期に至るまで学ばれました。
    晩年には五千人以上もの門弟を抱えたと言います。
    用筆や執筆法、古典や書体などについて論じた『米庵墨談』などの著書からもわかるように、論理的に学んだ米庵の学習方法とその書は明快で、時に俗っぽいものと捉えられることもありました。
    しかし、そのわかりやすさが教育的な面でも受け入れられた理由なのではないでしょうか。(田村彩華)

     

    【掲載作品】どちらも成田山書道美術館蔵
    ※1「書論六言詩」市河米庵 紙本墨書 軸(一幅) 136.9×61.7㎝ 堀江春蘭氏寄贈
    ※2「七言絶句」市河米庵 紙本墨書 軸(一幅) 122.3×46.5㎝

  • 4、市河米庵と江戸の唐様

    -2  韓天寿

     

     

    ※1

    服食而在人間 此速弊分明 且転衰老政可知

    乃欲与彦仁集界上 甚佳諸如此事 皆所欣也

    王右軍帖 韓天寿敬臨

     

    舶載法帖の和刻本として知られる「岡寺版集帖」を手掛け、江戸の唐様の普及に一役を担った韓天寿は二王を敬愛し、晋唐の瀟洒で穏やかな書風を得意としました。青木家に生まれ、中川家を継いだ出自ながら、馬韓の余璋王の末裔と称して韓氏を名乗り、酔晋斎と号しました。書画篆刻に優れ、私財を投じた法帖の蒐集は一代で家産を傾ける程だったといいます。池大雅、高芙蓉と親しく交流し、白山、立山、富士山などの名山に登り、ともに三岳道者と称して書画を遺しています。

     

     

    ※2

     

     

     

     

     

     

     

    ※3

    王羲之の服食帖を臨書したこの作も、二王に加え、虞世南あたりの穏やかな書法の影響が窺えますが、落款に「敬臨」と加えるあたり、王羲之への敬慕の様が感じられます。(山﨑亮)

    【掲載作品】

    ※1臨王羲之「服食帖」 韓天寿 紙本墨書 軸 103.4×26.3 成田山書道美術館蔵

    ※2岡寺版集帖 成田山書道美術館蔵

    ※3二王帖 成田山書道美術館蔵

  • 4、市河米庵と江戸の唐様

    4-3、大田蜀山人 「七言絶句」「暫の図」

    あなうなぎ いづくの山の いもとせを せかれてのちに 身をこがすとは
    (「万載狂歌集」蜀山百首より)

     

    成田といえば鰻ですね。
    この歌の筆者、鰻を食べて過去に親しかった方を思い出し、恋焦がれているのでしょうか。
    和歌が「雅」を重んじるのに対し、このような日常の「俗」に目を向け、滑稽な味わいを持つのが狂歌です。

     

    今回ご紹介するのは、天明狂歌の三大家のひとりといわれる大田蜀山人(おおたしょくさんじん)の書です。
    彼は生涯幕府の役人であり、寛政年間には支配勘定(今に例えると大蔵省の係長くらいでしょうか)として、七十過ぎまで働きました。
    その一方で江戸文化の雄として、時世時節に狂歌、狂詩、黄表紙、洒落本、漢詩、随筆なんでもござれと筆を執ったのです。

     

    通称は大田直次郎。号は蜀山人のほか、南畝、杏花園、四方赤良(よものあから)、寝惚(ねぼけ)先生など。
    生まれは江戸牛込。武士の家とはいえ御徒役の下級武士、さらに大田家は祖父時代以来、扶持の禄を抵当に入れ、何年も先の給料まで前借り、というような状態でした。
    しかし、教育ママの甲斐もあり、十五歳で内山椿軒の門に入門。
    それから漢学や国学、和歌などを学び、後に狂歌の一時代を築く唐衣橘洲(からごろもきっしゅう)や朱楽菅江(あけらかんこう)らと知り合い、多芸多才な平賀源内とも交わっています。

     

    少年は若干十九歳で、ハイティーン多感な若者から見た江戸の街あれこれ集、『寝惚先生文集』を出版して、狂歌ブームの中心に身を置くこととなりました。
    やがて文壇の大御所として当代最高の文化人と評された彼は、絵師や画工、書家、儒者、俳諧師など身分に関係なく、町人の知識層との幅広い交流を通して、江戸文化サロンの中心人物となりました。

     

     

     

     

    こちらは文政元年に古稀を迎えた蜀山人が、自ら詠んだ七言絶句を書いた漢字の作品です。
    下絵は鍬形蕙斎(くわがたけいさい)が淡彩で小舟と桃花を描きます。
    別世界にあろう平和で穏やかな理想郷・武陵桃源に重ね、老境にある静かな自身の心を詠んでいるようです。この幅からは最晩年の蜀山人そのものの姿が映し出されます。
    力まず軽妙な筆致はどことなく張端図にも通じ、大陸の書の動向にも関心を抱いていたことがわかります。この作品の書も画も、当意即妙でありながらじっくりと練られたような妙技を発揮しています。
    両者の魅力が相まって華やかさが際立つ一作です。

     

    また、蜀山人は成田山に御縁があります。

     

    成田山に、歌舞伎十八番の一つ「暫(しばらく)」の主人公鎌倉権五郎景政を、七代目市川團十郎が演じている舞台姿を描いた大絵馬が伝わります。
    画は新川斉万太郎によるもので、賛を蜀山人が仮名で記しています。
    同様に、同じ演目を初代歌川豊国が描き、蜀山人が賛を連ねた幅が、早稲田大学演劇博物館にも所蔵されています。

     

     

    千葉県指定有形民俗文化財 「暫の図」 文政6(1823)年 《成田山霊光館蔵》 高名は江戸三階にかくれなき芸の鑑の天下市川

     

    ところで五代目のころから、團十郎を支援する組織「連」が存在しました。
    その中に蜀山人を中心に組織された「四方連」があります。
    地縁には規定されない連は、身分を超越して交流する江戸の文化サロンの活動とも重なり、團十郎の支援基盤にもなりました。

    蜀山人が時同じくして熱心に支援したのが七代目市川團十郎。
    その團十郎が肝いりで建立したのが、今はなき成田山の通称第一額堂です(昭和40年に焼失し、現在の額堂は第二額堂)。
    その額堂に、ご紹介した絵馬は掲げられていたのでしょう。
    額堂は今日的に言うのであれば展覧会場の役目を果たしていました。あちこちから成田詣に訪れる庶民に親しまれ、賑わいをもたらしたことが想像されます。

     

     

     

    先にご紹介した書画幅、そして成田山の大絵馬から、蜀山人をとりまくものが見えてきます。
    江戸の人々は「雅号の使用によってそれぞれが変身し、身分を超越した文化活動の場に上昇転化することができた」(『江戸社会史の研究』竹内誠著といいます。

    蜀山人の筆跡を通して、華々しく花開いた化政文化の魅力が伝わってくるようです。(谷本真里)

     

    【ご紹介した作品】
    「七言絶句」98.6×29.7 成田山書道美術館蔵
    「暫の図」182×121 成田山霊光館蔵

     

  • 4、市河米庵と江戸の唐様

    4-4、北島雪山と細井広沢

     

     

    独立性易から文徴明をはじめとする中国書法を直接学んだ北島雪山(1637-1697)は、日本の唐様の祖と言われ注目されます。

     

     

    これは王維や杜甫などの詩を集めて揮毫された巻子本です。

     

     


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    細身の鋭い線質で、手足の長い字形から宋時代の黄庭堅あたりの書風も取り入れたことがわかります。
    中国書法に立脚した確かな筆法で、品のある作品です。

     

    さらに、雪山の門弟である細井広沢(1658-1735)がこの流れを受け継ぎました。

     

    広沢の著者『紫薇字様』の冒頭には雪山の肖像を掲げて讃を入れ、師弟関係を示しています。

     

     

    また、渡来僧である雪機が雪山に贈り、その後広沢の手に渡った「君子存之」の印影を摹刻して載せています。

    広沢はこの印を火災で失った後も覆刻して愛蔵していました。

    互いに慕い合う師弟関係がうかがえます。

     

     

    広沢の作品を紹介しましょう。

    漢の長仲統『楽志論』を書写した巻子本です。

     

     

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    生田氏の兄弟に書き与えられたもので、広沢68歳の作であることが巻末の識語からわかります。

     

     

     

    北島雪山の風をもとにしながらも、王羲之の書法を継承したと自身で主張するに相応しい、独自の風を見出しています。

     

     

    日本の唐様は雪山によって確立されました。

    その書を受け継いだ広沢は著書を数多く遺しており、『観鵞百譚』には王羲之、趙孟頫、文徴明の書法こそが唐様の主流であると語っています。広沢は唐様の普及に貢献した人物でもあります。

    この二人によって唐様全盛の時代がはじまります。(田村彩華)

     

     

     

     

    【掲載作品】どちらも成田山書道美術館蔵
    ※1「詩書巻」北島雪山 紙本墨書 巻子(一巻) 27.8×1034.0㎝ 中村龍石氏寄贈
    ※2「楽志論」細井広沢 1725年 紙本墨書 巻子(一巻) 27.7×457.6㎝