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  • 13、松﨑コレクションの古写経

    13-1、光明皇后発願「五月一日経」

     

    先週に引き続き、今週は松﨑コレクションの古写経を紹介します(松﨑コレクションの概要は12-1をご参照ください)。
    古写経のコレクションは全69件。大半が首尾一貫した巻物で、天平から南北朝までの写経を体系的に集められています。
    古写経蒐集は春川先生のころ、昭和30年代に始まりました。中正先生は春川先生の蒐集活動に当初から付き添っており、東京教育大学在学時には飯島春敬の授業を受けて名筆蒐集の奥義にも触れ、鑑識眼を磨いていらっしゃいました。
    古写経は主に中正先生が蒐集され、丁寧に調べて検討を重ね購入していらっしゃいます。

     

    今回は、奈良時代の素紙経を代表する一切経「五月一日経」をご紹介します。

     

     

     

    「五月一日経」は光明皇后(701-760)が亡き父母のために発願し、書写させた一切経で、総巻数は7000巻、または6500巻に及ぶと推定されています。これはそのうちの一巻です。巻尾に光明皇后の天平12年5月1日の願文があるところから、その名が付きました。

     

     

     

    この光明皇后が写経所の中では鍵を握る重要人物です。
    もともと光明皇后は皇后になる前から写経を発願し、藤原家で写経事業を行い、私的な写経所を持っていました。それが聖武天皇と結婚し、写経所も皇后宮職管下の写経として引き継がれ、公の機関になります。光明皇后や聖武天皇の存在が写経所を活発化させることになったのでしょう。東大寺の写経所が盛んな時代で、そのころは文字も規格も整います。その後、聖武天皇や光明皇后が亡くなると表現がやや自由になっていくような気がします。

    「五月一日経」は、端正で力強い筆致と厳格な校正作業とを合わせ、質量ともにわが国を代表する一切経といえます。「五月一日経」は、一切経の模範となる性質を持ち、「五月一日経」をテキストにした写経事業も行われるようになりました。その後の一切経は、「五月一日経」が土台にあったからこそ成立したといえるのではないでしょうか。

     

     

    「五月一日経」の修復工程
    この一巻は虫喰いや剥落が激しく、前回ご紹介した古写経手鑑『穂高』と同様に、半田九清堂に修復を依頼しました。

     

     

    もともと本紙に対して裏打ち紙が付いていました。
    左がもとの軸木で、中央がもとの表紙と裏打ち分。右が裏打ちを全部外して新たに仕立て直していただいたものです。もとは2倍くらいの太さになっていたわけです。現在は、裏打ち紙は外して本紙だけにし、虫喰いのあるところだけ補修紙をあてていただきました。

     

    巻頭の箇所ですが、以前は表紙が上に重なるようになっており、一文字目の「今」の右払いの部分が紙の下に入って隠れていました(左)。表紙を外して修繕をかけたことによって文字の先端が見えるようになりました(右)。

     


    左:修繕前 右:修繕後

    虫損部分は、それぞれ形の異なる補修紙を用意しあてています。

    補修紙を作るにあたり、本紙がどのような繊維で出来上がっているか調べ、材料と繊維の長さなどをマイクロスコープを通して調べています。その結果をみて、その繊維の割合、長さに合わせて紙を漉き直していただきました。薄いフィルムに虫喰いの跡をスキャンであてて、レーザーで虫穴を再現し、そうするとそのフィルムに虫喰い部分の跡(穴)ができます。そのフィルムを敷いて、そこに紙の繊維を流し込むとその型通りの紙ができるのです。

     


    補修紙作製

     


    欠損部補紙
    (「古写経切の修理及び手鑑「穂髙」の仕立てを終えて」株式会社半田九清堂 『青鳥居清賞-松﨑コレクションの古筆と古写経』古写経篇105頁から転載)

     

    その出来上がった紙を虫食い跡にはめていく作業をしていただきました。紙を漉くと周囲が毛羽たちます。その毛羽だけで貼っているため段差はほとんどありません。

     

     

     

    この補修紙の色を本紙に寄せることも可能でした。しかし、補修の跡も痕跡なので遺すようにし、本紙よりやや薄い色味の補修紙にしていただきました。
    巻末にいくほど虫が天地に抜けてめくれてしまい、虫喰いも二重になっています。虫が入ってしまったために裏打ちをし、さらにそこに虫損が入っているのでしょう。本紙と裏打ち紙との関係が良くないためシワが入ってしまっている状態でした。修繕したことによってそれらのことが改善されました。

     


    巻末部分(裏)

     


    上段:修繕前 下段:修繕後

    最後の軸付け紙は様々あるようです。今回は台形のようにしましたが、鋭く入っているものもあれば、もう少し鈍角になっているものも。「五月一日経」のなかでも多少異なるようです。
    軸先はもとのもので、軸木は新調しました。

     

    現在は巻も細くなり、箱は旧箱と新調した箱とを合わせて保存しています。
    旧箱には松﨑中正先生の箱書きがあります。

     

    松﨑コレクションの中で大きく修復をかけているのは、この「五月一日経」と古写経手鑑『穂高』です。
    このようにして伝来途中の履歴を消すことなく、この時代に修復をしたという記録を遺しながら後世に伝えていくことが大切なのだと思います。(田村彩華)

     

    【掲載作品】成田山書道美術館 松﨑コレクション
    光明皇后発願五月一日経 仏説寶網経残巻 1巻 奈良時代 天平12年(740)5月1日 紙本墨書 25.9×869.5㎝

  • 13、松﨑コレクションの古写経

    13-2 中尊寺清衡一切経

    みちのくに願いをかけた理想郷

    近年の大地震や津波、火山の噴火といったニュースで、平安時代との類似性を指摘する研究発表を目にする機会が多くなりました。貴族のきらびやかな生活の一方で、度重なる自然災害や疫病が相次ぎ、また現代科学の証明もない時代に先行きのない不透明感にさいなまれた人々は心の拠り所を求め続けていました。それは都を離れた奥州平泉でも同様でした。

     

    巻姿

     

    表紙

     

    冒頭

     

    本文1

     

    本文2

     

    世界遺産の登録で、一層脚光を浴びた中尊寺に奉納された一切経です。中尊寺といえば奥州藤原氏3代100年の栄華を連想される方も多いのではないでしょうか。初代清衡は中尊寺建立に際し、1117年から1126年にかけてこの一切経を書写させました。紺紙に金泥、銀泥で行ごとに交互に書き分ける形式は、国内では『法華経』があるものの、大部な一切経では他に事例がありません。入間田宣夫氏の指摘によれば、清衡は仏教を統治の柱とした領国運営を模索していたことが推察されます。この一切経は、前九年、後三年の役と骨肉相食む闘争が繰り広げられた挙句の鎮魂を意図した写経です。長らく安定した秩序が確立できなかったこの地で、自らが受け継ぐ藤原氏の血や在地の安倍、清原氏、様々な出自の人々が金銀織りなすように一つになりたいという希望を込めた写経だったのではないでしょうか。

    装飾美だけではなく、その精神美を味わっていただきたい写経です。(山﨑亮)

     

    【参考文献】

    入間田宣夫 平泉の政治と仏教 高志書院 2013年

     

    【掲載作品】成田山書道美術館 松﨑コレクション

    ※経44 中尊寺清衡一切経 紺紙金銀交書倶舎論巻第八 1巻 平安時代 紺紙金銀交書 26.4×672.4cm

    ※番号は『青鳥居清賞 松﨑コレクションの古筆と古写経』図録と対応しています。

     

     

  • 13、松﨑コレクションの古写経

    13-3、安倍小水万呂願経(大般若経巻第三百三十四残巻)

     

    今回も松﨑コレクションの古写経をご紹介します。

    貞観13(871)年、上野国の安倍小水麻呂が発願して、600巻を一具として書写せしめたもののうちの1巻です。平安時代初期に書かれた古い写経です。世に伝わる安倍小水万呂願経のうち、埼玉の慈光寺に伝わる152巻や京都国立博物館に伝わる1巻は、重要文化財に指定されています。

    発願者の安倍小水万呂は、昇殿を許されない身分ながらも、奈良から平安時代にかけてこのような写経事業を遂行する民度と財力を持っていた有力な地方豪族だったことが想像されます。「大般若経」は一切経の主たる仏典として尊崇され、後世に至るまで盛んに写経されている経典の一つです。貞観11年の貞観三陸地震ともいわれる大地震と大津波の犠牲となった人々への供養に書写されたものではないかといわれています。

     

     

     

    料紙は渋柿のような濃い茶褐色に染められた楮紙であることが特徴的です。天平写経の書風を受け継いだ謹厳実直な筆致です。写経の書写事業の中心といえば、京都や奈良でしたが、平安時代の初期には、関東においてもこれだけ大規模な書写事業が展開されていたことがわかります。紀年を有する安倍小水万呂願経は、それを裏付ける貴重な資料です。

    ところで、この古写経が奉納された、埼玉の慈光寺は、国宝で三大装飾経の一つ、「慈光寺経」(法華経)を有することでもよく知られています。一説には政争渦中の京都を避け、奉納先として慈光寺が選ばれたといわれています。慈光寺は、寄贈者・松﨑さんの住まいである青鳥居の近くを流れる都幾川を遡ったところに位置します。

    松﨑春川は写経の名手として知られ、「慈光寺経」の補写に携わっています。中正さんにも縁は引き継がれ、「慈光寺経」の修復を手掛けた半田九清堂・川端誠さんの講演を聴講されたことがあるといいます。先のブログのテーマでご紹介した、松﨑コレクションの核となる「穂高」の仕立てにあたったのも、半田九清堂です。

    この古写経をとりまくご縁というものを感じざるを得ません。(谷本真里)

     

     

     

     

    【ご紹介した作品】
    松﨑コレクション  安倍小水万呂願経(大般若経巻第三百三十四残巻)1巻 平安時代 貞観13年(871)紙本墨書 25.2×809.5㎝

  • 13、松﨑コレクションの古写経

    13-4、装飾法華経巻第二

     

     

    金泥で界を引き、天地に大小異なる金銀の切箔や砂子、野毛などで華やかに装飾された紙に『法華経』巻第二が首尾一貫して書写されたもの。紙背にも一面に銀の切箔が撒かれ、長い年月が経ち、それが紙面に抜けて模様のようにも見えます。もとは今よりも光り輝いていたのでしょう。

     


    裏面

     

    現在、この一巻と一具になるものは確認できませんが、八巻本の『法華経』、または開結を伴って十巻一具とされたものと考えられます。

     

     

    平安後期から鎌倉初期ころは、貴族社会の中で王朝貴族の耽美趣味と末法思想、法華信仰とが相まって『法華経』を中心とした装飾経が多く書写された時代でした。
    最澄が比叡山に天台宗を開宗して以来、『法華経』は根本経典と定められ、さまざまな講会が地域や階級をこえて盛んに行われました。多くの人が『法華経』の利益を信じ、流行することとなりました。これを結縁した宮廷貴族の趣向を反映して、本紙や文字、軸や紐、題簽などの装丁にも装飾意匠の善美を尽くした装飾経が誕生していったのです。

     

     

     

    この一巻もこうした背景に生まれたものとみられ、その装飾技巧が「平家納経」や「久能寺経」などと近い趣であることから、その成立は平安末期ころのものと考えられます。「久能寺経」「平家納経」「慈光寺経」のように経巻ごとに異なる装飾を施した、一巻経なのかもしれません。

     

    文字は、肉厚で天平経を思わせる堂々とした書きぶりです。ところどころに本文とは異なる手で朱点や読み、異同が記され、表紙や見返しはのちに補われたものとみられます。
    紙や装丁まで意匠を凝らし、文字も素晴らしく、装飾経の首尾一貫したものとして貴重です。(田村彩華)

     


    巻末

     

     

    【掲載作品】成田山書道美術館蔵 松﨑コレクション
    装飾法華経巻第二 1巻 平安時代 彩箋墨書 28.0×1244.5㎝