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  • 18、中野越南

    18-1、越南の仮名 田中親美との出会い

     

    当館では中野越南(1883-1980)に指導を受けた安達嶽南先生や古谷蒼韻先生、また、株式会社龍村美術織物様、御遺族の皆様から越南の作品や資料の寄贈を受け、120件ほどのコレクションを収蔵しています。平成22年には歿後30年中野越南展を開催しました。

     

    京都を拠点として活動した越南は、平安古筆を起点に王羲之を頂点とする中国古典を学び、禅僧にも通じる精神を作品に表現しました。日展や現代書道二十人展などでも活躍しますが、積極的に書壇と関わることは少なく、書の理想の形としていた「無心の書」を追求し続けました。

    戦前期には平安古筆と見紛うような仮名を書いていますが、戦後は禅林墨跡風の漢字に一変します。越南の系譜に連なる人は漢字作家が多く、安達嶽南、山内観、古谷蒼韻、吉川蕉仙、真神巍堂など、その精神は受け継がれています。精神性と技術とを高次元で一致させた作品は、現在もなお多くの人びとを魅了していることでしょう。

     

    今回は越南の原点となる仮名作品に注目したいと思います。

     


    ※1

     

    ※2 大正13年(越南41歳)

     

     

    こちらは、龍村美術織物の展覧会の解説文を揮毫したものです。上代様の端正で優美な書きぶりで、「高野切」や「粘葉本和漢朗詠集」を連想させます。

     

    染織家、龍村平蔵(号:光波)との出会いは、大正8年(1919)36歳の時、画家の江中麦生の紹介で、龍村美術織物の展覧会の織物につける解説文を揮毫したことによります。

     


    大正8年に日本橋倶楽部で開催された、龍村美術織物の展覧会の様子

     

    その展覧会に訪れた田中親美(1875-1975)は、織物よりも解説文の筆跡に驚嘆し、当時のことを次のように述べています。

     

    意匠をこらした織物がところせましと陳列してあったが、二、三見て行くうちに、ふとネームの文字に目が止った。線が清らかで澄んでいる。そしていかにものびやかで潤いがある。字形も美しく品格が高い。私は全く予期していなかった書の美しさにひかれ、織物の方はそっちのけで、そのネームの文字ばかりを鑑賞し、会場を一巡してしまった。(『中野越南作品集』田中親美「相識るの機」)

     

    越南と親美の出会いはこのようなきっかけでした。
    越南が書の道に専念することを決め、吉澤義則を知ったのが大正3年31歳の時のこと。
    吉沢との接点から「高野切」第二種にはじまり、「寸松庵色紙」、「本阿弥切」と古筆の学習を進めたといいます。その他の平安古筆の影印本も見ていたことでしょう。大正8年の展覧会の時には親美に激賞されるほどの技量があったことから、そのころにはすでに圧倒的なレベルに到達していたことが想像されます。
    親美は、古筆蒐集家であった原三渓、団琢磨、吉田丹左衛門、高橋箒庵、名古屋の徳川家、関戸家を紹介し、越南の古筆研究に便宜をはかりました。越南は親美と出会ったことで古筆研究が加速していくのです。真跡をみることができる喜びを感じながら、上代様の世界に入り込んでいったのでしょう。

     

    この作品は親美製作の紙に『古今和歌集春歌下』全66首を揮毫した長巻です。巻末に「十年五月廿三日」とあり、越南52歳の作であることがわかります。平安古筆に熱中して取り入れていた時期で、小粒な文字をリズムよく運筆し、「本阿弥切」を彷彿とさせます。

     


    ※3

     

     

     

     

    共箱に収められています。

     

     

     

    こちらの冊子本は上代様の仮名から漢字へ移行する時期の作品で、昭和21年、龍村平蔵の古希の祝いに贈ったもの。紙は田中親美によるものです。
    親美は料紙が完成すると越南に見せ、そうすると越南は作品に仕上げて送り返します。あるいは、婚礼や出産などの慶事に美しい巻子本や冊子本を仕上げて贈ることもあったようです。

     

     

     


    ※4

     

    越南の戦前期の仮名は特に平安古筆の背景を受けていることがよくわかります。相澤春洋は越南の仮名をみて冷泉為恭と極め、古筆と見間違えた、というエピソードがあるほど。
    越南は親美をはじめ、多くの古筆蒐集家や研究家の知遇を得、そこで学んだ知識や技法を徹底して自身の身体に覚え込ませようと意識していたようです。この時期に身につけたものが、越南の書の骨格を形成したのでしょう。(田村彩華)

     

    【掲載作品】成田山書道美術館蔵
    ※1 中野越南「法隆寺宝狩猟文錦解説」 彩箋墨書 二葉 各25.0×21.8㎝ (株)龍村美術織物寄贈
    ※2 中野越南「法隆寺宝狩猟文錦解説」 大正13年 彩箋墨書 一葉 26.5×34.7㎝ (株)龍村美術織物寄贈
    ※3 中野越南「古今和歌集春歌下」 昭和10年 彩箋墨書 一巻 27.5×359.9㎝ 古谷蒼韻氏寄贈
    ※4 中野越南「古今賀歌」 昭和21年 彩箋墨書 一冊 17.3×14.9㎝ (株)龍村美術織物寄贈

  • 18、中野越南

    18-2、 中野越南  “真の書“を求めて 「直筆・側筆の論」

     

    京都で帖学的な書を追究した中野越南は、内藤湖南の影響も受けながら40年という長い時間をかけて「直筆が是か、側筆が是か」について模索しました。

    大正7年頃、越南は京都師範学校の附属小学校において、巻筆を硬筆と同様に活用することをめざして、硬筆書写の研究をテーマに掲げていました。内藤湖南は自身の子が越南の授業を受講していたこともあり、ある時その授業を参観します。それが機縁となり、越南は湖南から用筆にはさまざまな問題があることを伝え受けるのでした。湖南は石刻に特有の刻意を筆毫で再現することを好みませんでした。越南はこれによって、刻の向こうにある真跡をいかに筆管によって再現するか、という命題に向き合うことになります。

     

     

     

     

    こちらは越南による日々の雑録です。冒頭の問題への回答として重要な手掛かりが示されているものです。

    この「備忘録」の始まりの年紀と重なる頃に、越南は第一回朝日現代書道二十人展に出品しています。直筆を主とした運筆に、時折点画に側筆が認められる作品です。昭和31年の制作です。

     

     

    また、同年の「風飄花片」は「側筆が是か」を意識しているようです。

     

    「風飄花片」

     

    「備忘録」の昭和32年の頁には、三月一日に自身の求める用筆への手応えを覚え、四月三日には「真側法完成」とあります。そして五月三日に「晋人法了得」、七月十六日に「遂ニ此十七日彼岸到達確認」、八月二十日に「嗚呼偉哉直法」、十月十七日に「直法遂二完成」、十月二十九日に「直法ノ理解ト技術完結」…というように「直筆」完成への道程が記されています。

     

     

    そこから、用筆の核心がその年に定まったことがわかります。かねてから求めていた回答が昭和32年以降の作品に結実することになります。

     

    「高啓五絶」

     

    昭和32年前後の作品を、作風の上から直筆・側筆と見極めることはなかなかできません。しかし、越南のなかに引っかかっていた大きな問題が解決され、戸惑うことなく筆が運ばれているように見えます。

     

    要するに作意の書はだめだ、人間が完成し、技術が高度になっても、結局無心になって書いたものでなければ真の書ではない。

     

    無心という言葉に象徴される越南の書的世界は、直筆の回答を得てより深みを増していきます。「弘法大師作七絶詩」の融通無礙に筆を運ぶ章法に、越南の心持ちがよく表れています。最期に至るまで、越南は直筆を軸に定めることで、あらゆる迷いを払拭し、制作に取り組みました。

     

    「弘法大師作七絶詩」

     

     

    平安古筆の再現に手腕を発揮し、田中親美にも高く評価された越南ですが、晩年は王朝的な仮名をすっかり手離しました。平安貴族の模倣をやめ、王羲之から真仮名、草仮名を経て洗練された仮名の流れを独自の感覚で再現すべく、漢字と仮名という垣根を取り払ったのです。求めたのは漢字や仮名に分類のできない「本当の書」。そう気づいた越南は無心で書に向き合い、やがて精神性と技法が高度に一致する世界を展開します。(谷本真里)

     

    【掲載収蔵作品】
    「風飄花片」昭和31年 1幅 139.4×34.2
    「高啓五絶」昭和36年 1幅 139.5×33.5
    「弘法大師作七絶詩」昭和39年 1幅 135.7×54.8

  • 18、中野越南

    18-3 中野越南 王城の地が育んだ理想の境地

    かつて己の書が相澤春洋に古筆と間違えられる程の腕を持ちながら、日展をはじめとするあまたの展覧会に対して距離を置き続けた越南のたどり着いた境地は墨蹟調でした。虚飾を廃し、全ての作為を否定した越南の境地は仏道の悟りの世界に近いでしょう。そんな晩年の一作がこちらです。

     

    ※1

     

    越南80歳の時の作は「喫茶去」です。息の長い存在感のある線は長命だった越南の人生を振り返るようです。長い人生を歩んできた越南に「まあお茶でも」などと声をかけられたら、あくせくした日常を忘れて心を落ち着かせたくなります。

    当時まだ都会の喧騒と縁遠かった鴨川のほとりの散歩を日課とし、心をきれいにするために自宅の柱や床板を磨き続けた逸話の遺る越南は平静から心の有り様を模索していました。無心の境地で揮毫することを至上のものとしていた越南の鍛錬の時間だったのでしょう。酔後や集まりの場でふいに筆を執ることも多かったといいます。

    越南の日常が垣間見られる作品がこちらです。

     

    ※2

     

    早望岫雲鴨水辺 潺湲洗耳恍将仙

    帰来払拭書斎裏 案上沈心対墨玄

     

    リラックスした筆遣いですが、筆先はしっかりと紙を掴んで安定感を感じる書きぶりです。酔後の席書の作品でしょうか、二行目では脱字したと思われる「恍」を書き足しています。この幅は、越南等身大の一作といってよいでしょう。(山﨑亮)

     

    【掲載収蔵作品】

    ※1中野越南 喫茶去 1面 紙本墨書 28.4×80.8cm  昭和38年 安達嶽南氏寄贈

    ※2中野越南 日常行事 1幅 紙本墨書 140.9×56.5cm  昭和37年頃 安達嶽南氏寄贈