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  • 19、古谷蒼韻とそのコレクション

    19-1 古谷蒼韻とそのコレクション 送筆に込めた魂

    京都の書家古谷蒼韻は京都府師範学校在学中に中野越南と出会い、書を志します。越南の教えは古典を師とすることでした。このため蒼韻は越南に私淑して書に没頭します。蒼韻の青年期は書が大きな転換期を迎えた時期でした。第二次大戦が終わり、昭和23年に日展に参加すると書は次第に壁面芸術としての志向性を強めていきます。蒼韻もまた関西を代表する辻本史邑、村上三島らの指導を受け、展覧会でも頭角を現します。送筆に魂を込めるという越南の思想を受け継ぎ、金農や鉄斎といった個性的な表現を採り入れて独自の文人世界を創出した史邑や、会場の天井の高さを生かした長条幅に連綿草で熟練の手を披露した三島らを間近に思索の世界を深めます。

     

     

    こちらは平成19年の日展出品作です。大字2文字に落款が付され、余白を程よく埋めて全体に引き締まった印象を与えています。「亀鑑」という比較的馴染みのある言葉を題材としながら、俗気は全く感じません。どこか墨蹟の香りがするのも印象的です。蒼韻が過ごした京都はいたるところに墨蹟が遺されていました。その影響の強さは生前蒼韻自身が回顧しています。書法にとらわれ過ぎない墨蹟は、蒼韻の願った生きた線がつどう原点だったのかも知れません。

    私淑した中野越南は、晩年は手元に何も残さず、ただ書を極めました。当館に寄贈されたコレクションはこれに倣う作家一代の魂だと考えています。護り伝えていきたいと思います。(山﨑亮)

     

    【掲載収蔵作品】

    ※古谷蒼韻 亀鑑 1面 紙本墨書 171.0×94.0cm  平成19年日展出品作 古谷蒼韻氏寄贈

  • 19、古谷蒼韻とそのコレクション

    19-2、古谷蒼韻揮毫の筆塚 「筆魂」

     

    江戸時代、寺子屋で読み書きや算用を学んだ生徒のことを筆子といいました。師匠が亡くなると、その遺徳を供養するために建立したのが筆子塚です。筆塚ともいいます。いつからか人びとは祖先や自然に留まらず、ものや生きものも崇拝するようになりました。転じて筆塚は、勉学に欠かせない筆や鉛筆その他文房具全般を対象に、祈りを捧げ、謝意を表す機会に、広く庶民に身近なものとなりました。

    成田山書道美術館の前庭には、立派な赤松や神聖な白松に護られるように、台座を含めると高さ約4メートルほどの筆魂碑が建っています。この石碑は平成20年に成田山開基1070年祭の記念事業として建立された筆塚です。成田山は、石川照勤の五事業に象徴されるように、文化や教育を重んじる観点から、筆塚はたっての建立でした。また、成田山全国競書大会を通して成熟した成田山と日中両国書壇との深まる由縁を顕彰します。ここ成田山では毎年、僧侶による筆塚の法要が厳粛に執り行われています。存在感あるこの石碑は、来館者が記念撮影をする場としても親しまれています。

     

    「筆魂」碑 近景

     

    筆魂碑は、抜群の存在感がありながら、成田山公園の自然に溶けこむように、季節やお天気によっても様々な表情を見せてくれます。石積みされた台座の上に、男性の背丈の高さほどある大きな「筆魂」の凹字は、見れば見るほど味わいが増します。起筆の蔵鋒まじりの露鋒や字の結構など、一見柔らかい印象でありながら、一字一字には一気呵成に書き進めた躍動感があります。それは刻された石碑の文字からも伝わってきます。こちらは原稿です。

     

     

     

    揮毫者の古谷蒼韻先生には、長年、成田山全国競書大会の運営にご尽力いただきました。この碑の揮毫は、平成18年に日本芸術院会員に就任されて、まもない頃のものです。王羲之に端を発しながら、和様の空気も感じることができる、晩年ながらの代表作の一つに挙げられるでしょう。

    今回は、この石碑の建立時における様子もお写真でご紹介します。

     

    原稿の写しをあてながら石を選定

     

    石碑は 高さ約3m、幅約2m

     

     

     

     

    イメージを確認

     

    彫りをチェックしているようです

     

     

    完成 台座にもご注目、隅石が絶妙です

     

     

    こちらは法要の様子です。

     

     

     

    筆魂碑は、昭和以降に建立された石碑のなかで最大級です。成田山公園には、約三千の石碑があるといわれています。その中には巌谷一六や西川春洞、中林梧竹、小野鵞堂、長三洲、中村不折など、名家の手によるものもあります。また、成田山には、茶筅塚や包丁塚もあります。

     

    成田山書道美術館へお越しの際は、前庭の水琴窟で心を清め、筆塚に向き合って筆墨に感謝し、技芸の上達を願ってみるのもよいのではないでしょうか。(谷本真里)

     

    【掲載作品】
    「筆魂碑原稿」平成20年 二幅  表:175.5×84.5 裏:122.3×59.5 紙本墨書 成田山新勝寺蔵

  • 19、古谷蒼韻とそのコレクション

    19-3、古谷蒼韻「良寛詩歌」「良寛詩六首」

     

    ※1

     

     

     

    こちらの屏風は、越南ゆずりの墨跡調で、良寛の漢詩を一首、万葉仮名で和歌を一首揮毫した大作です。
    連綿は最小限に抑え、一文字ずつを丁寧に書き進めているように見受けられます。字形や墨色の変化、運筆の緩急などに富み、筆を自在に走らせ、次第に動きに勢いが増していきます。

     

    墨跡への傾倒は、墨跡好きであった越南の影響が強くあったといいます。なかでも寂厳の代表作「飲中八仙歌」の草書の屏風を学書の資としたようです。

     

     


    古谷蒼韻コレクション「寂厳遺墨集」(付箋が貼ってある作品)

     

    もう1点ご紹介します。

     


    ※2

     

    こちらは、ひとつの作品のなかに楷書、行書、草書、仮名とあらゆる要素が盛り込まれた4段構成の作。
    このような横形式の作品を好むのは、寂厳の「飲中八仙歌」の影響か、行間のつくり方で作品に動きを出すことができ自身の求める表現に合致していたからでしょうか。

    書き始めの楷書は、扁平な字形に肥痩のある線から鍾繇の「薦季直表」を思わせます。王羲之の書を掘り下げていくと、王羲之自身が影響を受けた鍾繇の書にたどり着き学んだようです。楷、行、草、仮名と展開する流れは自然で、その意識に落差はありません。仮名は王羲之の草書からできたものであり、仮名も漢字も、漢字の各書体によっても技法を使い分けることはないという考えなのです。表現領域の広い古谷先生ならではの作品といえるのではないでしょうか。

     

    古谷作品を通してみると、木簡や墨跡風の個性的な表現、明清調、万葉仮名や仮名を用いた和様風の作品など、多字数から小字数の大字作品まで様々な表情を見せています。その時々の時代に対応し書の多様性を示しつつ、どのように変化しても揺るがない芯となる根本には王羲之の書があったのでしょう。(田村彩華)

     

    【掲載作品】成田山書道美術館蔵
    ※1 古谷蒼韻「良寛詩歌」156.0×365.0㎝ 六曲半双 紙本墨書 平成20年 第43回現創会展 古谷蒼韻寄贈
    ※2 古谷蒼韻「良寛詩六首」各24.0×225.0㎝ 一面 紙本墨書 平成15年 日本書芸院展 古谷蒼韻寄贈

  • 19、古谷蒼韻とそのコレクション

    19-4、コレクション

     

    古谷先生は、平成25、26年にかけて手元に置いていた作品と拓本類、図書や文房四宝などを手放し、当館に寄贈していただきました。そのコレクションは、拓本、原拓類42件、影印類188件、墨8件、硯16件、水滴3件、印材73件、紙65件です。

     

    法帖

    法帖類は体系立てて蒐集することを目的としたのではなく、自身の学書のために集めていたようです。丁寧に扱っていたのでしょう。どれもきれいな状態で遺っています。
    古谷先生は「できるだけ王羲之の書を臨書することに勉めている。それも搨摹本や臨本ではなく拓本である。一番好きなのは澄清堂帖、なかでも廉南湖本が最もこのましい。ついで淳化閣帖中の羲之諸帖、そして上野本十七帖といった順である。最近は印刷技術がすすんで本物そっくりの複製本が出版されて大変有難い。しかし私は、真蹟や撮摹本・臨摹本の印刷物での臨書は余り好きでない。(中略)拓本を習うところに書を学ぶ妙味があるように思えてならない」(『王羲之書蹟大系』東京美術、1982年)と述べています。

    影印本とは異なる独特の趣のある法帖を手元に置いてその風合いを味わいながら学んでいたのでしょう。王羲之系統の法帖が充実し、王羲之を中心に帖学を本流とする姿勢を示していた作家が強い関心を抱いていたことがわかります。

    当館所蔵のコレクションをいくつかご紹介します。
    「南唐澄清堂帖」(影印本)

     

     

    よく臨書していたという「淳化閣帖」巻七、八。こちらは菊池惺堂旧蔵のもの。

     

     

     

    王羲之「十七帖」(影印本)
    このほかにも、師の中野越南から譲り受けた「十七帖」を大切にしていたといい、好んで学んだ古典のひとつ。
    多くに「蒼韻墨縁」の印が押してあります。

     

     

     

    「興福寺断碑」(影印本)題箋は本人によるもの。

     

     

     

     

    「王羲之の書は学ぶにしても拓本ですから、線質、境地がわかり難い。それで肉筆を併習した方がいいと思って寂厳を選んで学んだ」(『墨』63号、1986年)といい、拓本からはわからない生きた線を習得するために、王羲之と寂厳を1日ごとに臨書していたこともあったといいます。

     

     

    印材

    コレクションのなかでも印材が最も充実しています。

     

    この「三獅紐田白」は、かすかな象牙色のなかに蘿葡紋が浮き出した材が獅子紐の彫りと調和して、コレクション中でも屈指の品格を示しています。
    河野隆氏は「一寸三分角上の三獅鈕はこんもりとした豊かな作りで、熟視すれば毛並みの繊細な表現にも技を尽しており、材を手にした時のたっぷりとした重量感と、材から立ち昇る気格に格別の満足感を抱かせるものである。恐らく日本で見ることのできる最高の田白の一つであろう」と評しています。

    桐材印盒扉には「明坑三獅鈕田白章」と墨書された表題があります。

     

    また、古谷先生は田黄の印材を好み、この田黄「静質荘親王永瑢璽」のような角材も多く見受けられます。

     

     

    貴重な材は産出した原石の状態のままのものが多いですが、このような角材は周囲の材を落としてきれいな正方形に整えているため、そのような観点からも印材としての価値を高めています。

    黒檀製の内盒扉に「静質荘親王永瑢璽」の題字が金文で墨書されており、乾隆帝の第六子、康熙帝の孫の永瑢の所蔵品であったことがわかります。詩画に秀で、天文に通じた王族遺愛の印材として愛蔵されてきた名品です。

     

     

    紙のコレクションは手書きの臘箋のような彩箋や、枯れた白の画仙紙が多く、制作のために用意していたのでしょう。


    乾隆年仿金粟山蔵経紙

     


    両面腊箋

     

    この腊箋の1枚は、「京都松華堂監製」と裏印が押してあります。蒐集した紙は実際に作品にも使用していました。

     

     

    杜甫「九日」昭和45年第2回日展

    師の越南風を抜け出そうと取り組んだ木簡研究の成果が表れた作です。本人は「木簡の草隷と隷意をもった草書とを調和させながら、書き進めた横物である」(『墨』61号)とコメントし、字形を追うよりも勘でとらえて木簡風に書いたといいます。このほかにも彩箋に書いた作品が遺っています。

     

     

    古墨の数は8丁あまりと多くはありませんが、この乾隆御墨に代表されるような明清の格の高い墨が見られます。

     

    乾隆御墨仙楼閣

     

     

    印材に角材が多いように、硯も材をぜいたくに使った長方硯を好んでいたようです。


    端渓灰蒼色太史硯

     

    法帖のコレクションは学書の資として、紙は制作のために、そのほかの文房四宝は書斎に彩りを添え、芸術の質を養い高めていたのでしょう。(田村彩華)