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  • 21、赤羽雲庭

    21-1、赤羽雲庭 「凜厳」

     

    https://youtu.be/-s0WvgATkvk

    ▲こちらの動画でぜひ墨色をご覧ください

     

    縦方向に筋状の墨垂れの痕。白隠「常念観世音菩薩」のような、筆画に墨だまりを残した作品に触発されたのだろうといわれるこの作品。琳派絵師の技巧、たらし込みのようでもあります。古墨によるこの独特な色彩は、言葉では表しがたい古蒼の趣があります。

    金箔をあしらい、古朴な風合いに仕立てた洋額調の三角縁は、和様折衷の特注品です。筆者の好みが表れています。

     

    この作品は、戦後の書道界で活躍し、青山杉雨と並んで時に「赤鬼、青鬼」と併称された赤羽雲庭の代表作で、昭和36年の日展文部大臣賞受賞作です。

     

    雲庭は明治45年に神田岩本町でガラス会社を経営する裕福な家に生まれました。書は13歳で日蓮宗の僧侶であり西川春洞門の七福神の一人とされる花房雲山に、27歳で漢学者の角田孤峰に就きます。そうして早くから古典の源流を尊びました。また、実業家として成功していた雲庭は、日頃から書画を愛で、机辺には常に文房具の良品を置いていました。岸田劉生のコレクションについては、有名作を含む三十点ほど所有していたといわれます。古今東西の多岐にわたる絵画や音楽に触れ、文墨に親しむ姿は、文人気質がにじみ出ます。当時の書家の間でも雲庭は特異な存在だったようです。

     

    書風は日展に出品を始めた昭和20年から、王羲之を頂点とする晋唐から宋にかけての書法を中心に展開し、帖学的な王道の書法をもって世に認められました。しかし、昭和30年代に入ると作風は一転、墨蹟調の大字を書くようになります。

     

    昭和28年『書品』(一月号)は、赤羽雲庭が墨蹟の世界の入口に立った経緯を伝えます。かつて西川寧に墨蹟をどう思うか問われた際、雲庭は「書として上手でないと思うので興味を持ちません」と答えました。それが大燈の墨蹟に心を留めたことにはじまり、東坡や米芾を媒体とした表現に有効性を見出し、やがて大雅、玉堂、鉄斎、ルオー、梅原らと心の中に一連したフォービズムを築き上げた…とします。二王に因る態度を貫きながら、「以前には興味もなかった墨蹟調が、或は私の前途に待受て居るのではないかと考え、又それの持つ引力のようなものに牽かれる危険を感ずるようになった」という雲庭は、ある意味自覚的に墨蹟の世界に自ら身を投じたようです。

     

    雲庭は当時の書壇の重鎮である鈴木翠軒や豊道春海にも実力を認められ、津金寉仙や西川寧の影響も多分に受けながら活躍しましたが、この作品「凜厳」を一つの節目に、徐々に書壇の中枢と距離を置くようになります。雲庭の書はいよいよ内向的ないとなみとして熟していくのです。一期一会に書に向き合うことで生まれた雲庭のこの作品には、古墨の香りに通じる格調高さがあり、展覧会主義の時代にありながらどこか禅味を帯びた複雑な妙味があります。(谷本真里)

     

    【紹介掲載作品】
    赤羽雲庭「凜厳」昭和36年日展文部大臣賞 一面 紙本墨書 205.0 ×79.2 

  • 21、赤羽雲庭

    21-2 赤羽雲庭 作家の眼と学芸員の眼

     

    二王を範として、完成度の高い行草で観る者を驚嘆させていた雲庭は、『凛厳』や『暮山巍峨』といった代表的作品の発表を経て、次第に書法を超越した滋味溢れる作品を多く手掛けるようになりました。雲庭の生きた線を追い求めるアプローチはとても複雑で、一点、二点の作品で雲庭像をまとめるのは難しいと感じています。

     

    ※1

     

    こちらは昭和25年の日展に出品された作品です。『書品』12号によれば、玉版貢箋を張った屏風に「月精」という青墨を用いて淡墨で書かれた一枚書きで、まさに酔中の仙人を思い起こさせるような自由な筆遣いが印象的な作品です。30代の壮年の精気が感じられる一点です。

    続いて、

     

     

    ※2

     

    昭和43年の日展の出品作です。これより前、『凛厳』『暮山巍峨』といった代表作を立て続けに発表した雲庭はその後、肝臓疾患で病に倒れました。後に命を失うことにつながった闘病生活の中で、気力を振り絞って発表したこの作は、強く筆をこすりつけたような渇筆が随所に現れた孤高の世界が表出されています。

    さらに、

     

    ※3

     

    亡くなる前年、昭和49年の日展出品作です。伸び伸びとした気宇の大きい書き振りで、荘子の言葉を書き上げています。一種の爽快感すら感じます。

    壮年時から技術の高さで将来を嘱望された雲庭は、技術ばかりが前面に出ることを危惧し、様々な思索を巡らせました。当館の収蔵コレクションはその葛藤の一面を表しているようです。学芸員はこうした軌跡をたどることで作家の世界に迫りたいと考えています。しかし、現役の先生方にお話をお伺いすると、「作家は様々な試行錯誤を経て今に至ったので、新しい作品に注目して欲しい。」という考え方が多いようです。コレクションを前にして、果たして赤羽先生だったらどう自己分析をされるだろうか。興味が尽きないところです。(山﨑亮)

     

    【掲載収蔵作品】

    ※1、赤羽雲庭 杜甫飲中八仙歌 6曲半双屏風 紙本墨書 144.8cm×368.5cm  昭和25年日展出品作 赤羽ルリ子氏寄贈

    ※2、赤羽雲庭 元張昱詩 1面 綸子墨書 153.8cm×63.5cm  昭和43年日展出品作 植木靖子氏寄贈

    ※3、赤羽雲庭 畫地而趨 1面 紙本墨書 152.0cm×43.5cm 昭和49年日展出品作 立見閑氏寄贈

  • 21、赤羽雲庭

    21-3、古法を学ぶ「臨書折帖」

     

     

     

    これは王羲之を臨書した折帖です。
    雲庭はよくこのような大型の画仙紙の折帖を守尾瑞芝堂で特別に用意し、臨書に取り組んでいました。薄めに磨った乾隆墨を好んで使っていたようです。縦に長い大型の折帖のため、一行が五文字以上になるものもあり、気脈の通った表現を可能にしています。展覧会に出品する作品制作とは異なり、修業的な姿勢で取り組んでいました。

    遺された折本の種類は王羲之、王献之が数多く、羲之以前の「石鼓文」や「開通褒斜道刻石」などの篆隷や「論経書詩」、造像記、顔真卿や宋、明清時代の書など幅広い古典が確認できます。淳化閣帖や澄清堂法帖などの集帖(法帖)を見ていたのでしょう。

    年紀を記したものも確認でき、昭和20年代後半から40年代にかけて積極的にこのような臨書に取り組んでいたようです。
    13歳の時に西川春洞門下の花房雲山(1870-1936)に師事し、王羲之「集字聖教序」をはじめとする古典を学ぶことの大切さを学んだ雲庭は、雲山没後、角田孤峯(?-1943)に書論や説文、詩なども学びます。
    雲庭は次のように回想しています。

     

    わたしは昭和13年から五年間ほど、角田孤峯先生に師事しました。先生は――王羲之、王献之を引き続き勉強しなさい。唐の人も宋の人も皆二王を学びました。王羲之、王献之を学ぶかぎりあなたは唐の三大家とも宋の四大家とも兄弟弟子なのですよ――今でもわたくしは先生の言葉を実行しています。二王の書を学ぶことは、究極の目的はそれに似ることではなく、すぐれた点画の配合を学ぶことです。すぐれた点画の妙を会得しなければ真の書の美は理解できません。(『現代の書道Ⅱ』、「行書Ⅰ」、講談社刊、昭和43年)

     

    「王羲之、王献之を引き続き勉強しなさい」という言葉から、二王の学習は雲山に習っていたころから続いていたことがわかるでしょう。師風を追わず、古法に遡って学ぶことを旨とした考えは、雲庭の書に対する姿勢に多大な影響を与えたに違いありません。また、雲庭は西川寧の論説に啓発され、王羲之の大切さがわかったといい強い影響を受けます。

    雲庭は、長い間二王の臨書に熱中して取り組み、「蘭亭序」を毎日一本臨書しようと試みたことがありました。
    そのうちの一本をご紹介します。箱書きには次のようにあります。

     

      

     

    昭和廿三年頃蘭亭叙ノ各種ヲ毎日一本臨書スルコトニ
    定メタルモ半年ニテ五十数本書シテヤム此其ノ一本ナリ
    昭和四十三年五月福岡市大丸百貨店ニテ赤羽雲庭書作品展ヲ
    ナスニ当リ装ヲ改メ出陳ス 于霊芝艸堂雲庭自題

     

    昭和23年(1948)11月「臨張金界奴上進本蘭亭叙巻」個人蔵

     

    見てわかるように、雲庭の臨書態度は徹底しています。字形や線質、運筆などのあらゆる観点に注目し、原物に寄り添って臨書しています。
    「私の臨書は法帖から自分が感じ取ったものを、自分流にそのまま表現し、誰々、と先覚者の臨書法や筆法を踏襲しない」(『書道講座』1954年)という雲庭の臨書は、古人の意を汲むために行われました。こうした臨書態度によって王羲之や王献之などの書法の神髄を会得することができたのです。

     

    紙に目を向けると、朱で「乾隆四十年 行有恆堂製羅紋宣」と押してあるのが確認できます。臨書にも上質な紙を用いていました。

     

    昭和20年代の作品は、二王を習いこみ、その書法に宋の蘇東坡や明清の長条幅の風を加えた作品を数多く遺しています。30代にして、王羲之を書かせたら同世代に赤羽の右に出る者はいない。とまでいわれ、行草書の名手として評価された雲庭は、日展で連続して特選を受賞。新世代のスターとして注目をあびたのです。その背景にはこうした臨書に取り組む姿がありました。

    「点画の配合の良さ、線質の良さ」良い書の条件はこの二つに限られます。すぐれた点画の妙を学びとった上でなくては、内容の優れた近代の書は生まれないと思います。

    こう話す雲庭は、臨書を通して様々な古典の核となる趣や古人たちの書の本質を捉えようとしていたのでしょう。(田村彩華)

     

    【掲載作品】
    「臨王羲之帖」 44.3×11.2㎝ 十帖 成田山書道美術館蔵
    「臨張金界奴上進本蘭亭叙巻」 昭和23年(1948) 32.6×131.3㎝ 一巻 個人蔵