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  • 6、安東聖空と大字仮名運動の人びと

    6-1、安東聖空

     

    近代を迎え、東京府美術館(現東京都美術館)が大正15年に設立されて以降、書を鑑賞する場は徐々に書画会や煎茶会などから展覧会へと移っていきます。

    戦後、昭和20年(1945)に書壇再建を目指して創設された日本書道美術院には多くの書家が参加しました。

    現在の毎日書道展は全日本書道展の名で昭和23年から開催され、また同年に日展の五科に書が加わり、その他にも書道団体が誕生しはじめ、仮名を主とした書道会も多く見受けられるようになりました。

     

    これまで仮名は机上作品が主流で、日展でも薄暗い工芸室のケース内に展示される地味な存在でした。

    そこで仮名も漢字と同様に広い会場に見合った大きな作品を望むようになったのです。

    大字仮名を奨励した安東聖空は次のように述べています。

     

    「古筆切」は冊子や巻子における繊細な美の表現であるのに対して、私は壁面に「大字かな」をもって、さらに強く日本的な美を打ち出すことを意図した。いいかえれば机上の美を壁面に移すこと、この事によって「かな芸術」の新境地を、この様式の変革に求めたのである(安東聖空『聖空作品集』)。

     

     

    上代の仮名は机上芸術、今の展覧会の芸術は壁面技術だ。壁面芸術に持っていかなければいかん、と理屈をつけて、それには大字を奨励して、当時仮名の審査員だった七人が「七人の侍」よろしく武者修行に出て、地方の主だったものに旅費は一切いらんから世話だけしなさい、ということで盛んになったんです(安東聖空『書のこころ』)。

     

     

    この「七人の侍」とは、安東聖空(1893-1983)、田中塊堂(1896-1976)、内田鶴雲(1898-1978)、桑田笹舟(1900-1985)、日比野五鳳(1901-1985)、谷辺橘南(1905-1980)、宮本竹逕(1912-2002)のこと。

    昭和25年当時、日展審査員を務めていた関西の7人を中心に、全国各地で講習会を開き、大字仮名の普及に努めました。

    尾上柴舟が亡くなる昭和32年を境に大字仮名運動は本格化していきます。日展の入選作品や特選受賞作品も大字仮名が徐々に増えていきました。

     

    大字仮名運動は、展覧会が盛んになり書が壁面芸術になったことから、その場に適した表現を追求したことに由来する運動だったのです。

     

    今回は安東聖空を紹介します。

     

    兵庫県姫路市に生まれた聖空は、姫路師範学校を卒業して近藤雪竹に師事し、文検合格後は神戸第一高等女学校で教鞭を執りました。

    女学校で仮名を指導しなければならなくなり、「教えるなら正しいものを教えたい」とこれが契機となり本格的に仮名を学ぶようになりました。

    このころは尾上柴舟の主張した「粘葉本和漢朗詠集」の全盛期。聖空もはじめは「粘葉本和漢朗詠集」を独学で学びました。

    それから高野切第一種、第三種、寸松庵色紙、継色紙、関戸本古今集、元永本古今集と学び表現の幅を広げていきます。

     

    これは昭和32年に揮毫された作品です。

     

    ※1

     

     

     

    平安古筆を基本にしながら線の太細に変化をつけ、2行目は1行目に沿うように自然な流れで書いています。

    大字仮名を奨励した聖空ですが、大字仮名といってもこのくらいの文字の大きさの作品が多いです。

    自分の作品は「叙情性がない」と自ら分析していますが、簡素美を尊重した聖空の書は無駄がなくて読みやすく、品格があります。

     

    もう1点細字の作品を紹介します。

    これは唐紙や金銀の砂子や切箔などで装飾された粘葉装の冊子本に、北原白秋の歌集『桐の花』から抄出した歌を書いたものです。

     

    ※2

     

     

     

     

     

     

     

    「寸松庵色紙」や「継色紙」の散らしの美の分析をした聖空は、余白を広々と大きくとり、散らし書き特有の余白美を展開しています。

    複雑な変体仮名や長く続ける連綿もあまり見受けられません。

    「簡素に行きつけば品格が出る」と考えた聖空らしい作品です。

     

     

    こうした聖空の細字の作品は、大字仮名運動があったからこそ生まれたものだとも言えます。

    これまでの古筆風の表現とはまた異なり、大字仮名に取り組んだことによって得た表現の幅が広がったのだと思います。

    簡素美を尊重していた聖空は、昭和前半期の大字仮名運動から徐々に成熟していく表現に、抑制的に対応しているところがあります。

    聖空は仮名の本質を見極めて重視すべきことを軸にし、時代に見合った表現を求めたのではないでしょうか。(田村彩華)

     

     

    【掲載作品】どちらも成田山書道美術館蔵

    ※1「引潮に」安東聖空 昭和32年 紙本墨書 軸 129.3×34.1㎝ 森本栖鳳氏寄贈

    ※2「桐の花抄」安東聖空 昭和29年 彩箋墨書 冊子本 24.8×17.8㎝ 杉岡華邨氏寄贈

     

  • 6、安東聖空と大字仮名運動の人びと

    6-2、日比野五鳳

    大字かな運動は、単にかなを大字で書くという運動ではありませんでした。漢字書において明清調が好まれたり、前衛書が気勢を上げるのと同じように、かな書が壁面芸術としてどう変容するべきかを模索した試みでした。

    戦後のかな書を牽引した日比野五鳳もまたこの時代を先導した一人でした。六曲半双屏風に仕立てた「いろは歌」(東京国立博物館蔵)は、五鳳の代表作としてよく知られるところです。

    ただ、五鳳の仕事は小作品の「ひよこ」(東京国立博物館蔵)や、中字で二曲半双屏風に仕立てた「モモ栗」(日比野五鳳記念美術館蔵)など、一括りでまとめられるものではありません。文字や画面のサイズはあくまで結果でしかなく、どう表現するかに腐心した書業だったのでしょう。

     

    やや硬質の強い書き出しで始まるこの作ですが、行頭を下げ、空間を作ることで明るい印象を感じます。書き進めるに従い、かな特有のたおやかな線質が混ざり合い存在感のある一作になっています。

     

     

     

    日比野光鳳先生の箱書きもいただいております。

     

    五鳳らの取り組みは、現代のかな書に大きな道筋を切り開くものでした。かなを平安時代を頂点とする王朝文化としてだけで捉えるのではなく、その根源となる漢字との関係の再構築に脚光を浴びせたのです。(山﨑亮)

    【掲載作品】

    伊藤佐千夫歌「春めきし」 1幅 彩箋墨書 32.0×49.8㎝ 成田山書道美術館蔵

  • 6、安東聖空と大字仮名運動の人びと

    6-3、桑田笹舟「料紙は書家の家である」

     

    今回ご紹介するのは今日の関西における仮名の隆盛の基を築いたひとり、桑田笹舟(くわた ささふね/1900‐1989/名は明/広島県福山市の生まれ)の作品です。現在、ふくやま書道美術館にて『生誕120年桑田笹舟展』が開催されていることもあり、笹舟に注目が集まっています。

    昭和32年、尾上柴舟が死去すると、笹舟は師である安東聖空や日比野五鳳、田中塊堂、内田鶴雲、谷辺橘南、宮本竹逕らと、大字仮名運動を興しました(黒沢明監督の映画タイトルになぞらえて大字仮名「七人の侍」と呼ばれています)。それまでの帖・巻子にあわせた繊細な仮名の表現から、現代空間に調和させるような、大きな仮名表現を追求する仮名の現代化が始まったのです。笹舟は古筆の鑑定や料紙制作にも詳しく、独自に理論と実践を展開しています。やがて昭和の仮名の金字塔といわれる「日月屏風」(昭和61年)のような、大胆な料紙装飾に見合う骨格の充実した仮名を確立しました。

     

    「夏山の」 夏山の こぬれををしみ 時鳥 なきとよむなる こえのはるけさ

     

    笹舟の仮名への関心のはじまりは、書道雑誌がまだ少ない頃に刊行された『書苑』(法書会)に紹介される古筆の世界に刺激を受けたことだといいます。また、同じ頃に田中親美が料紙と古筆について多数の研究を発表し、大正末期から昭和初期は仮名書道の黎明期でした。

    師・安東聖空との出会いは、神戸市立の教員養成所に入学してからのことでした。その時に習字の講師を務めたのが安東聖空。意外にも、笹舟は当時は字が下手で、その講習の時間が苦痛であったと懐古しています(『桑田笹舟の世界』谷口光政著)。二人は赴任先でも交わり、やがて大正十三年に合格した文検が大きな契機となりました。笹舟は一楽書楽院(のちの一楽書芸院および書道笹波会)を創立し、そこに文検指導部も設けました。すると反響を呼び、多くの文検合格者を出すとともにその会員たちが基盤となり、会は急成長していきました。昭和4年には安東聖空とともに正筆会を設立し、『かなとうた』を発刊。この雑誌は関西はもとより関東においても人気に火が付き、笹舟は編集主任として精力を注いだのでした。そのような充実もあり、昭和15年には笹舟は教師を退官、書の道を専らにします。

     

    「ゆふもや」 書と料紙が一体となって、尾上柴舟の歌の世界観を表した作

     

    ゆふもやは あをくこたちを つゝみたり おもへはけふは やすかりしかな

     

     

    ところで、笹舟を語る上で「料紙」に注目しないわけにはいきません。

    料紙に目覚めたのは大正14年の日本書道作振会主催の公募展でした。次のような下絵の作品を出品して入賞したといいます。

     

    以前「書苑」などで古筆の下絵を見た事がありそれを想いだし「から紙」の文様、墨流しを応用して、その流れを山に見せた。その下に松を描き橋も描き、その上には馬に乗った旅人が居る。山と松の間を鶴(金泥)が飛び、彼方に渚を描いた。それが下絵であった。

     

    こうして仮名作品の制作にあたって、古筆研究や料紙の追究が不可欠であることを、肌身をもって感じたのです。また、田中親美や料紙制作者の宮田三郎との出会いも大きな影響をもたらしました。特に、どうしても親美に会いたかった笹舟は、二度にわたって手紙を出しましたが、返信がなかったために直接訪問して親しくなったといいます。

     

    時には原料を現地に求め、和紙の漉元を尋ねたりなどして、笹舟はひたむきに現代的な仮名表現にふさわしい料紙を求めました。特に重視したのは、墨色の本領を発揮させるような料紙の開発です。昭和十五年頃からは実際に版木を彫り、摺って加工してみて、紙質や装飾の本質を知ろうとしています。その意識は表具にもおよび、「一体性」を重んじました。

     

    笹舟は書学の原点のひとつに「手で見る」ことを挙げます。
    手は「顏よりも何処よりも表情の豊かさをもち、そして可能性に満ちている」「一本の手は単調に繰り返す忍耐力を持ち、そして他の一本は次から次に変化していくことに順応する」と言います。「覚える手」と「創り出す手」です。

    昭和五十六年、田宮文平氏は笹舟に寸松庵色紙の復元本を贈られたた時に、つぎつぎに解き明かされる制作過程を「まるでミステリの傑作でも読むようです」と文を寄せました(『「現代の書」の検証』田宮文平書)。

    寸松庵色紙は、笹舟が生涯研究した古典の一つで、不明な点が多い名跡です。笹舟は装丁や料紙の文様、歌の並びなどから、古今和歌集の四季の歌を全部書いたという全書説をとり、「粘葉本寸松庵古今集」を提案したのでした(『近代かな書を切り拓く 評伝 桑田笹舟』谷藤史彦著)

     

    笹舟のこうした研究の積み重ねは作品に結実します。「ゆふもや」はその好例でしょう。
    自分の思い描く理想を求め、労をいとわず用具をこしらえ、細部にわたり構成が練られています。

    「料紙は書家の家である」という笹舟の業を辿ると、筆跡のみならず書をとりまくものへの愛着が自ずと増していきます。笹舟の遺した作品の一つひとつが、仮名書道の真髄たるものを私たちに問いかけているように思えます。(谷本真里)

     

    「あしびきの」 琳派風に金銀泥でききょうを描き、仮名の表現もその下絵に調和させている

     

    あしひきの 山とひこゆる あきのかり いくへのきりか しのききぬらん

     

    【ご紹介した作品】
    「夏山の」一幅 紙本墨書136.1×34.9 高木聖鶴氏寄贈
    「ゆふもや」昭和62年現代書道二十人展 一幅 彩箋墨書 32.0×48.0 桑田三舟氏寄贈
    「あしびきの」一幅 彩箋墨書 18.0×14.0 大森華泉氏寄贈