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  • 8、今関脩竹

    8-1、今関脩竹 関東の仮名

    仮名書はその成立過程と料紙、装飾を含めた艶やかさから、平安古筆が最上のものとされ、常に規範であり続けてきました。文字の美しさは言うまでもなく、平安時代、貴族文化への憧憬が根底にあることは確かなところではないでしょうか。しかし、自由主義という新たな時代の中で、平安朝のきらびやかな世界とは一線を引き、さながら関東武士のような引き締まった静寂の世界で魅了したのが今関脩竹です。

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    脩竹は、千葉成東の生まれ。豊島師範学校に進学し、卒業後は千寿高等小学校などで訓導として教育にあたる傍ら、高塚竹堂に師事しました。小野鵞堂流の平明で分かりやすく、また漢隷を得意とした漢字の近藤雪竹の薫陶を受けた竹堂の書を学んだことは、その後の脩竹の書に振幅を持たせたことは確かでしょう。同時期に脩竹は、漢学を松本洪に学んでおり、教養面を含めて書をより深く、多面的に理解しようとした姿が窺えます。表現主義、風潮に傾かない独自の風の確立は、この時に約束されていた感があります。

    脩竹の作品は、料紙を用いることも少なく、大半の作品は余白の白と墨の黒で勝負する大変質素でごまかしのきかない世界です。この作にみられるように大胆にカスレを用いることで作品に余韻を持たせています。さながら古武士のような気韻を感じます。これが脩竹の目指した書の世界なのでしょう。(山﨑亮)

     

    【掲載収蔵作品】

    ※1あゆの籠 二曲半双屏風 135.0×102.0cm  昭和54年現日展出品作 今関小枝子氏・藍筍会寄贈

    ※2春日山 1幅 135.0×51.0cm  昭和56年日展出品作 今関小枝子氏・藍筍会寄贈

  • 8、今関脩竹

    8-2、今関脩竹 「白の世界」

     

    今回も、昭和35年に藍荀会を設立し、関東の仮名を牽引した今関脩竹の作品のご紹介です。
    彼は関西の仮名とはひと味違った魅力を生みだしています。

    2013年、当館は「今関修竹展」を開催しました。その鑑賞会において藍荀会の現会長・清水透石氏は、そのみどころを「白の部分をどのように構成しているか、脩竹作品では最も大切な要素」と伝えました。脩竹は一貫して「白」をどう映すかに重きを置きました。そのために必要なのは「空間を生かせる筆力」であるといいます。

     

    「沖つ辺に」昭和45年

     

    「うしもろとも」昭和49年

     

    その一要素に、墨つぎを極力控えた粘りのある線質が挙げられます。脩竹は昭和35年頃から独自の渇筆の妙を志向したように見えます。一見軽快でありながら粘り強さのある線質は、脩竹の人となりにもどこか重なります。年を重ねるごとに、筆圧が高くなっていく傾向があり、その渋みは増していきます。

     

    「さみだれや」昭和60年

     

    こうした筆力によって生かされる「空間」も見逃せません。「空間」を辞書で引くと「何も無くあいている所」とあります。書においては主に余白を指すことが多い言葉でしょう。昭和39年「ひさかたの」などの昭和40年前後以降の作品からもわかるように、「空間」の意識化は早期から始まっています。
    「みちふさぐ」のようなそれまでにも試みている形式でも、線が変化することで余白が変化し、脩竹のいう意味のある「空間」が生じているように思えます。

     

    「みちふさぐ」昭和46年

     

    また、最晩年作「馬追蟲の」は「寸松庵色紙」を下敷きにしながら、枯れた線と潤筆の大きなコントラストによって余白の奥行きが増し、理想の「空間」を得ているようです。寸松庵のみやびの世界に端を発しながら、どこか禅味を帯びた脩竹の仮名に変貌しているのです。

     

    「馬追蟲の」昭和63年

     

    「二三日」にはこうした脩竹の考えが凝縮されています。

    一行目の「二三日」は単体で字間を設けるとともに少し墨を多めに、二行目の「掃かざる庭の椎」では墨継ぎせず割れた穂先もそのままに書き進みます。中心軸を半文字分ほど右にずらしながら紙面の中央を貫き、それに寄り添う「おち葉」で初めて短い連綿線を用いて控えめにまとめ上げます。一行目と二行目の空間もさることながら、左右と下、とりわけ左側に残された余白には寂寥感が漂います。この句の詩情と余白とが相俟って、見るものの心を揺さぶります。

     

    「二三日」 昭和57年

     

    脩竹の作品に派手さはありません。高い用具もあまり好まなかったといいます。敢えて時代に迎合するものを書かなかったようにも見えます。終始一貫、求道的に「白」にせまった脩竹の作品は、普遍的な書の美が凝縮されています。

     

    書は筆一本に託する表現であるから、
    一本の筆であらゆる可能性の線を引くことができるところまで持っていくことが、
    書の勉強でしょうね

    (谷本真里)

     

    【ご紹介した作品】
    「沖つ辺に」昭和45年 日展 一幅 135.0×52.0 / 「うしもろとも」昭和49年 日展 一幅 135.0×50.0  / 「さみだれや」昭和60年 現日展 一幅 135.0×51.0  / 「みちふさぐ」昭和46年 現日展 二曲半双 133.0×100.0  / 「馬追蟲の」昭和63年 日展 一面 69.0×135.0 / 「二三日」 昭和57年 かな書展 一面 70.0×70.0

  • 8、今関脩竹

    8-3、今関脩竹 絶筆「ある日わが」

     

    今関脩竹の絶筆を紹介します。

    昨年、藍筍会(会長清水透石先生)に寄贈していただきました。

    当館ではご遺族の方、藍筍会の方に御作品を一括してご寄贈いただき、過去に今関脩竹展を開催しています。

    こちらはまだ当館では展示したことのない作品です。

     

     

     

     


    「ある日わが庭のくるみに囀りし小雀きたらずさえかへりつつ」

     

     

     

     

     

     

    病室のベッドの上で精魂傾けて書いた一作です。

    島木赤彦が病床で詠んだ歌を書いています。自身と重ね合わせているのかもしれません。

    二か月間点滴で過ごしていましたが、構想が湧いたからか墨を磨ってほしいと奥様に頼み、ベッドから起き上がって一枚だけ書いたもので、そのあとすぐに集中治療室に入ってしまいました。

    「あの状態でよく書けた」と奥様も驚くほど。でも、「筆を持ったらぴしっとして、これなら大丈夫と思いました」と奥様は言います。

    書いたあとも「囀りし」のあたりを気にし、「終わりの二行が気に入らないから明日もう一回書き直そう」と言っていましたが、もう書けませんでした(「聞き書き 今関脩竹のことども」語り今関小枝子)。

     

    普段から量を書き込んで仕上げていたため、この作品は不本意だったに違いありません。何度も考え直した草稿もたくさん遺っていたといいます。
    しかし、本人が気にしていた「囀りし」に弱さはなく、力を振り絞って書かれた渇筆に思いが込められているようにも感じます。

    この作品は亡くなった翌年(平成2年)の現代書道二十人展に遺作出品として展示されました。

     

    脩竹は、生涯のほとんどの時間を作品制作と学校教育、門弟や学生の育成にあてたといいます。
    また、浩宮様(現在の天皇陛下)への御進講役を12年間務められました。

     

    脩竹が思うままに書に専念できた裏には、献身的な奥様の支えがありました。

    家のことは一切せず、勉強一筋だったという脩竹の部屋には大量の蔵書があったといいます。

    家は七坪の狭い家だったといい、奥様が「こんな家で恥ずかしい」と言ったら、脩竹は「勉強しないほうがよほど恥ずかしい」といったエピソードがあるほど。墨や紙は特に選ばない。高いものは買わない。とにかく腕一つなんだ。と。質素な生活のなかでも書において妥協は許さず、その姿勢を貫きました。

    奥様とは小学校の同僚で、同じく高塚竹堂の門下でした。結婚して奥様は書を辞め、あらゆる面において脩竹を支えました。決して裕福な生活ではなく、書家としての地位もなく、というころから必死に書道に向き合う脩竹を支え、苦労を共にしてきたのです。

    その奥様が最後まで大事に部屋に掛けていたのがこの作品です。これまでの軌跡を思わせる愛着のある作品だったのでしょう。
    男性的で荒々しくも枯淡な表現が魅力な脩竹の作品のなかでも晩年の作は、慎重な筆運びで枯れた表現のなかに内包される強さを感じ、脩竹の人柄が映し出されているようです。(田村彩華)

     

     

    【掲載作品】
    「ある日わが」今関脩竹 平成2年現代書道二十人展(遺作出品) 69.0×115.0㎝ 紙本墨書 一面 藍筍会(会長清水透石氏)寄贈 成田山書道美術館蔵