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  • 3、中林梧竹と三輪田米山

    3-1 中林梧竹「朝爽」「鈍刀不截骨」

     

    幕末明治の書
    中林梧竹と三輪田米山

     

    新しいテーマは中林梧竹(1827‐1913)と三輪田米山(1821‐1908)です。
    二人に共通するのは、維新を人生半ばで迎え、大きく揺れ動く時代を生き抜いたこと、そしてそれぞれの後半生において気宇壮大な書を遺していることです。

    梧竹は、幕末の文人的な気質をもちながら、当時はまだ真新しかった古代文字の造型的な面白さを捉え、それまでの日本には見られなかった斬新な作を数多く手掛けました。

    一方、米山の書は、ある意味梧竹とは対照的で、作為や構築性の高さはあまり感じられません。彼の書は、他者に誇るというものではなく、内向的に熟していきます。とりわけ酔余の書は、書としての根源的な主張や魅力を強烈に発しています。その在り様は「とてつもない」と評されるように、私たちを惹きつけてやまないものがあります。(徳島県立文学書道館「とてつもない書-米山の大字」より)

     

    今回は中林梧竹作品のご紹介です。
    こちらは、「朝爽」という小ぶりな扁額です。

     

     

    八十五歳の梧竹が、避暑を兼ねて逗留した横浜の「朝爽夕佳亭」に掲げられていた作品です。梧竹の書業が大きな功績として今日に伝えられる要因の一つには、海老塚的伝という実業家の存在があります。
    的伝とその父・量正は二代にわたって梧竹と親交を結び、作品を蒐集しました。
    特に明治四十四年の作品群は質量ともに充実しています。それは、量正の隠居地である「朝爽夕佳亭」に過ごし、じっくりと自分の書と向き合う機会を与えられたからこそでしょう。

     

    「朝爽夕佳亭図并題」(部分) (徳島県立文学書道館蔵)
    梧竹は、画家木村香雨に椅子で寛ぐ自身と縁側に腰かける的伝を描かせ、自ら賛を入れた巻物を、感謝の気持ちをこめて的伝に贈っている。

     

    そもそも梧竹の後半生は書家として大変恵まれたものでした。維新後に勤めていた長崎県を致仕してから、その縁で余元眉(よげんび)に書法を尋ね、渡清し、余氏の師・潘存(はんそん)の北派の書を学びます。また明治初期に政界で活躍する副島種臣の斡旋で58歳から29年間、銀座の洋装店伊勢幸に寄寓し、「銀座の書聖」として梧竹は全国へ名を轟かせました。梧竹の書を求める周りの声が、彼の背中を押したことを想像させます。

     

    ところで、梧竹には次のような作品もあります。

     

    梧竹は佐賀県の小城藩士の生まれです。
    藩校に学び、命によって江戸に留学して市河米庵門下の山内香雪に学んでいます。前半生は藩士としての責務をまっとうしました。

    長寿を得た梧竹ですが、87歳で病に陥り、郷里に帰ります。
    この作品は郷里の佐賀で歿する一か月前に、衰えた体を人に支えられながら揮毫したものです。

    「鈍刀不截骨」(なまくらな者には核心は掴めない)という禅語からも、何者にも冒されそうにない潔い筆運びからも、武士としての梧竹の精神を垣間見ることができます。書法を極め到達した梧竹最晩年の姿です。

     

    この作品は歌人として有名な斎藤茂吉が旧蔵したもので、箱書きも施しています。のちに書家の松井如流が愛蔵しました。

     

    終わりに

    当館では2013年に、的伝が寄贈した梧竹コレクションを一括で所蔵する徳島県立文学書道館から作品をお借りして「的傳の梧竹」展を開催しました。
    その借用に際して、文化財を守るのは、人であり、また、人から人へのバトンであるのだなということを強く実感したのでした。
    的伝は強い意思をもって、信頼のおける人脈のあった徳島県に、かけがえのない梧竹の作品の寄贈を決意したのです。

     

    左上:千代紙でおおわれた函

    生涯をかけて顕彰活動を行った的伝による梧竹作品の解説本(昭和17年発行の初版本)

     

    近代日本の書のコレクションを見渡すと、海老塚父子の蒐集した梧竹コレクションのように、関東大震災や空襲を乗り越えて、百点規模で遺されている例はなかなかありません。
    後に続く米山の書作においてもいえることですが、私たちが今日目にすることができる作品は、それらに寄り添ってきた人々の存在があってこそのものなのですね。(谷本真里)

     

    【ご紹介した作品】どちらも成田山書道美術館蔵
    「朝爽」明治44年  一面 30.9×68.0  紙本墨書
    「鈍刀不截骨」大正2年 一幅 135.1×33.5  紙本墨書

  • 3、中林梧竹と三輪田米山

    3-2、中林梧竹「四言詩」

    中林梧竹の魅力はそのスケールの大きさにあるでしょう。今回ご紹介する四言詩もまた梧竹の生き様が感じられる一作です。

     

     

    煮字療饑 尋詩作活

    借天為紙 汲海濡毫

    鋳大人先生法家貴属

    日本中林梧竹

     

    篆刻家の衛鋳生の求めに応じたこの作は、開通褒斜道碑を彷彿とさせる穏やかな隷書で揮毫され、力みや作為は全くありません。大陸との行き来が盛んになった明治時代は、日本の書家が本場の書法に強いあこがれを抱いた時代でした。しかし、大陸に帰る衛鋳生に「日本中林梧竹」と添える彼の書にてらいは微塵も見られません。飾らない書美の世界がここにはあります。

     

     

    衛鋳生は梧竹に揮毫を依頼した時、成田山新勝寺に建立された梧竹揮毫の般若心経碑を話題にして梧竹の関心をひいています。

    その碑は現在も成田山公園内に現存しています。

     

     

     

     

     

    普段、現代でも通じる独創的な書の世界を展開する梧竹ですが、この碑は忠実に王羲之の『集字聖教序』を臨書しています。(山﨑亮)

     

    【掲載作品】

    四言詩 中林梧竹 明治23(1890)年頃制作 紙本墨書 対幅 134.0×31.2×2  成田山書道美術館蔵

     

  • 3、中林梧竹と三輪田米山

    3-3、三輪田米山

     

    梧竹と同時代には前田黙鳳、北方心泉、副島種臣など自らの表現を開拓して個性的な書を求めた作家が多くいます。
    今回は三輪田米山(1821-1908)を紹介したいと思います。

     

    松山にある日尾八幡神社の宮司の家に生まれた米山は、父から受け継ぎ60歳まで神官の職にあたりました。
    その立場から神社や祭礼に関わるものを数多く揮毫し、日尾八幡神社境内の入り口には米山の手になる「鳥舞魚躍」注連石(しめ縄を渡すための石碑)が建てられています。明治13年(1880)米山60歳の書です。

     

     


    ※1、新倉勇一氏によって採拓されたもの

     

    二人の弟は明治維新の動乱の時代に東京や京都に出て活躍しています。
    そのなかで米山は家を守り、書を学び、一生を松山で過ごしました。

     

    お酒を飲んでは筆を持つ豪放な人柄で知られた米山ですが、60年もの間丁寧に日記をつける細やかな一面もあり、書に対するこだわりも強かったと言います。


    ※2

     

    当時から全国的にその書が評価されていたかというとそうではなく、地元松山を中心に親しみ愛された、いわば無名の存在でした。
    平凡社、河出書房出版『書道全集』にもその名は確認できず、全国的な知名度を得たのは戦後になってからといっていいでしょう。

     

    『墨美』4号(昭和26年)では実業家である山本発次郎が「無名の書聖三輪田米山―遺墨発掘編」に蒐集にかけた想いを綴っています。山本氏が米山の作品を蒐集しながら積極的に紹介したことによってその名は広く浸透したと言えます。

     

    書は独学で王羲之の書や「秋萩帖」などを徹底して学んでいます。
    もちろん当時頼山陽などの唐様の書が流行していたことは認識していました。
    巻菱湖や市河米庵などの書法を身につけた日下伯巌の書を手本としていた時期もあり交流があったことから、様々な書や法帖も知っていたでしょう。
    しかし、米山は王羲之に遡ってその書法を追求し尊重したのです。
    だからこそ仮名も同様に仮名の始まりである草仮名の「秋萩帖」を求めたのかもしれません。

     

    草仮名を多用した作が数多く遺っており、今回は万葉集を書いた一幅を紹介します。

     


    ※3

     

    初めは「秋萩帖」の風が顕著にみられる作品を書くこともありました。
    しかし、この作品は秋萩帖の本質を捉えながらも、肉太で大胆な自身のリズムを展開しています。
    年紀はありませんが晩年ころのものでしょう。当時このような仮名作品を書くのも珍しいです。

     

    薄い朱色で「米山」の円印が押されていますが、落款だけで印のない作品が数多くあります。
    印に関してはあまりこだわりがなかったようです。

     

     

     

    米山は誰かに師事するわけでもなく、ひたすらに王羲之や「秋萩帖」を範として自身の思う書を追い求めました。
    生涯松山を離れず、地方にいたということも米山にとっては良かったのかもしれません。
    梧竹のように中央の書壇で活躍し評価されていく作家が多いなかで、米山は後にも先にもないような個性的な書としてのちに評価されました。
    米山の書には酒がつきもので、その時々の状況や心情によって作品も変化します。
    理屈ではない人間味あふれる魅力がその書にはあります。(田村彩華)

     

    【掲載作品】すべて成田山書道美術館蔵
    ※1 拓本「鳥舞魚躍」三輪田米山 明治13年(1880) 紙本墨拓 軸(一幅)114.0×38.0㎝×2 金木和子氏寄贈
    ※2「米山日記」三輪田米山 紙本墨書 まくり 27.3×20.2㎝
    ※3「万葉歌」三輪田米山 紙本墨書 軸(一幅) 131.0×62.5㎝

  • 3、中林梧竹と三輪田米山

    3-4、三輪田米山と「秋萩帖」

     

    米山が学んだ「秋萩帖」は江戸時代から数種類の墨帖が刊行されており、御家流に寄せた墨帖もできるなどして手本として流通していました。

     


    ※1

     

    これには橘千蔭(1735-1808)の跋文があり、数多く刊行されていたもののなかでも原本に近い姿であると高く評価しています。
    米山は実際どのようなものをもとに学んでいたのか定かではありませんが、こうした墨帖から学んでいたのでしょう。

     

    江戸時代の禅僧である良寛(1756-1831)もまた「秋萩帖」を学んでいます。
    良寛が「秋萩帖」を臨書したものです。

     


    ※2

     

     


    良寛手拓本「秋萩帖」

     

    これは御家流に近い墨帖をもとに臨書したのではないでしょうか。
    良寛は数種類の「秋萩帖」の墨帖を所持していたといい、この他に細身で真跡に近い趣のある臨書作品が遺っていることからもわかります。

     

    米山も良寛も御家流が主流であった仮名とは異なり、「秋萩帖」を基盤に独自の様式を展開していく姿が共通します。
    しっかりと形態を学ぶというよりも上代様の仮名の空気を取り入れて、良寛は素朴で繊細な表現を、米山は墨跡風とも感じられる大胆な表現を作り上げていったのではないでしょうか。(田村彩華)

     

    【掲載作品】どちらも成田山書道美術館蔵
    ※1「秋萩帖」墨帖 折帖 一冊
    ※2「臨秋萩帖」良寛 紙本墨書 軸(一幅) 26.5×12.1㎝