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  • 11、手紙 

    ソーシャルディスタンスが叫ばれる昨今、人のぬくもりが恋しくなる毎日ですね。SNSも便利でよいですが、心の距離を縮めるのには「手紙」も効果的だと思います。本来、「手紙」は当事者同士の私信ではありますが、人の心を打つ手紙にはその端々に美しさが存在します。そこで今週は「手紙」をご紹介します。

     

    11-1、鈴木翠軒「師から弟子へ」

    誰かの一言で人生が変わる、一生の座右の銘となる、そのような話をよく聞きます。今回ご紹介する手紙もその一通です。

    ※1

     

    お手紙の趣拝承 それはさうなさった方がよろしいと存升

    ソレデ貴兄の一代が光るやうになります うれしい御報也 喜んでゐます

    又どうぞお遊びにお出で下さいマセ 御令閨様に宜敷 草々不尽

    四月二十五日 春視

    小暮様 御左右

     

    小暮青風が書家として立つ決意を報告したことに対しての返信です。漢字、平仮名に加えて片仮名を織り交ぜて親しみを込めて綴った一通は、青風の一生の宝物になりました。青風は後に日展、読売書法展をはじめ、現代書道二十人展のメンバーとしても活躍、翠軒の期待に存分に応えました。

    もう一点、

    ※2

     

    独楽を採りました大傑作也 風流世界は稍ミダレてソレニ弱い

    朝日展へのはマダゝゝ也 シマラナイ モットやって見られよ

    独楽見事ウマイもの也 喜び二不堪うれしいナ 奥様によろしく

    七月八日 翠軒

    芝堂様 硯北

    松下芝堂の作品に対する感想を述べています。素晴らしい作品であったのでしょうが、こんな激賞をされたらどんなに嬉しいことか。更なる課題も示して弟子のやる気を盛り上げています。芝堂は日本を代表する作家として、日本芸術院賞恩賜賞の栄誉に輝いています。

    翠軒は国定教科書の揮毫者として、初唐の端正な書風を根底とした新たな学書の基本形を確立しました。一方、書作では嵯峨天皇の李嶠詩や空海、良寛などの書を消化した、闊達、無辺な抒情世界を創出しました。二通の手紙にもそのような世界が感じられます。(山﨑亮)

     

    【掲載収蔵作品】

    ※1小暮青風宛書簡 1面 紙本墨書 17.9×94.1㎝ 小暮桂千氏寄贈

    ※2松下芝堂宛書簡 1枚 彩箋墨書 18.0×108.8㎝ 松下英風氏寄贈

  • 11、手紙

    11-2、近衛家煕 一条院門跡宛書状

     

    五摂家の筆頭、近衛家の21代当主である近衛家煕(1667-1736)の書状をご紹介します。
    宛先の「一門様」は一条院門跡の真敬法親王(1649-1706)のことです。一条院門跡は以前の山階寺(現在の興福寺)。当時、伝橘逸勢筆「伊都内親王願文」は山階寺におさめられており、これはその「伊都内親王願文」の借用を申し入れた書状です。

     

     

     

     

    家煕は、予楽院と号し、有職故実をはじめとする詩書画、茶道や華道などに精通する文化人でした。父基熙の影響を受けて平安朝の名筆に惹かれ、上代様の書を蒐集し、臨書や模写をすることに情熱を傾けました。

    後水尾天皇の皇子で家煕の母の兄弟であった真敬法親王から上洛の知らせを受けた家煕は、「伊都内親王願文」を必ず持ってきてほしいと念を押したのです。

     

     

     

    家煕はこのように古典や古筆を手元に寄せ、数多くの名筆を模写しています。その多くが真筆からの臨書や模写で、徹底して原本に忠実に写しとろうとしています。ほとんどが原寸大で、臨書や模写だけでなく双鉤填墨によるものもあります。

    その対象となる古典や古筆は幅広く、中国の碑法帖や日本の漢字、仮名、和歌懐紙、消息などバラエティに富み、家煕の臨書したものをまとめた「豫楽院臨書手鑑」が陽明文庫に遺っています。

     

     

    江戸時代くらいになると、「秋萩帖」や「風信帖」、「伊都内親王願文」などの様々な名筆が法帖(墨帖)として刊行されるようになりました。

     

     


    「集古浪華帖第一」伊都内親王願文 文政2(1819)年刊行

     

     

    今日のように写真撮影ができるわけでもなく、広く公開もされていない時代です。どこかの時点で家煕のように誰かが模写をしなければそれができなかったことでしょう。
    この家煕の書状からは、そのきっかけとなるような様子が見える気がします。

     

    家煕は20代を中心として、生涯にわたり名筆の臨書や模写を繰り返して書を学びました。
    御家流や唐様が広く親しまれる中で家煕は近衛家にあった名筆を手本に書を学び、平安朝の書を規範とした珍しい人物とも言えます。この書状は内容もさることながら、晋唐の古典をしっかりと学んだ背景が垣間見える骨格のある筆跡で注目されます。(田村彩華)

     

     

     

    【掲載作品】成田山書道美術館蔵
    「一条院門跡宛書状」近衛家煕 一巻 紙本墨書 15.6×87.3㎝
    「集古浪華帖第一」 森川竹窓(1763-1830)編集 文政2(1819)年刊行 折帖

     

  • 11、手紙

    11-3、『集古浪華帖』道風書状

     

    前回の近衛家煕「書状」のなかで触れた『集古浪華帖』といえば、、、
    現在はその所在を知ることのできない小野道風(894-966)の書状が11通収められています。

     

     

     


    『集古浪華帖第二』小野道風消息

     

    これ以外のほとんどの筆跡が真跡であることから、この11通についても道風の真跡をもとにして復刻した可能性が高いと考えられています。これは道風の消息の姿を知ることができる唯一のものとして大変貴重です。

    道風の書というと、主に行書体で重厚な筆致の「屏風土代」や楷、行、草書を織り交ぜ、大小の変化をつけながら自由奔放に書き進められる「玉泉帖」などが印象的です。それらと比較するとこの消息は、草書や仮名を用いて落ち着いた趣があり、その風が藤原佐理「頭弁帖」と似ています。自然な書き振りが手紙ならではの味わいなのでしょう。

    道風自筆の遺墨は漢字だけで、仮名が見られるのはこれだけです。所々に仮名の書き振りが確認できます。

     

    道風消息の真筆は遺っていないため、複製ではあるものの、日常的に書かれた道風の筆跡を理解する上で貴重な資料と言えます。

     

     

    江戸時代、文政2(1819)年に刊行された『集古浪華帖』は、ほぼ原寸大の超大型木版本。
    その精度の高さは、空海「風信帖」を見れば一目瞭然でしょう。

     

     

    『集古浪華帖第二』風信帖

     

    渇筆の繊細な線までも丁寧に再現されています。
    篠崎小竹が跋文を寄せ、手放しに褒めているように精巧な仕上がりです。

     

    これを編集したのが書家、篆刻家として知られる森川竹窓(1763-1830)です。
    名筆があると聞けば日本中どこへでも飛んで行き、模写をしたといいます。この『集古浪華帖』に収められる44件は、竹窓が模写した中から厳選したものなのです。書の腕前はもちろんのこと、鑑識眼の高さを知ると同時に、精妙な模刻本によって当時の伝存状況を伝える資料としても価値の高いものです。

     

     

    通常は和綴じの冊子本ですが、当館所蔵の『集古浪華帖』は折帖仕立てになっています。虫喰いなどの損傷が少なく、状態のよいものです。(田村彩華)

     

    【掲載作品】成田山書道美術館蔵
    『集古浪華帖』 5帖 森川竹窓編集 文政2(1819)年刊行

  • 11、手紙

    11-4 谷崎潤一郎宛書簡 安田靫彦

     

    安田靫彦(1884-1978)は日本橋の料亭「百尺(ひゃくせき)」三代目の四男として生まれます。画家を志したのは、明治30年の日本絵画協会共進会による展示がきっかけでした。そこには因習的な日本画に変革をもたらすべく横山大観や菱田春草が集まり、指導者として岡倉天心もいました。靫彦は明治31年にその会員の小堀鞆音に師事します。号は、鞆音の師である川崎千虎から与えられました。歴史画を得意とした靫彦は、日本美術院の再興時代に、経営者同人として第二世代をリードしました。

     

    この屏風は、靫彦から谷崎潤一郎に宛てた2通の書簡を上部に、靫彦が手がけた潤一郎の『少将滋幹の母』の装丁原画を下部に貼り込んだものです。靫彦の手になる書簡は幅のある仮名を基調とし、筆はすっかり手に馴染んでいる書きぶりです。宛先の潤一郎もまた肉筆時代の文豪として、書斎に美麗な蒔絵硯箱を備え、日常的に手紙や短冊などに筆を執った能書でした。この書簡から、互いに日常的に書をしたため、篤く交流した様子が目に浮かびます。

     

     

     

     

    右端から貼り込まれた1通目は、昭和24年11月から翌年3月にかけて毎日新聞に連載されたその小説の挿絵画家に、小倉遊亀と中村貞似を推薦する内容が書かれています。「全く迷ふので有りのまゝ申し上げる次第です」と、あくまでも潤一郎に選択を委ねています(結果、遊亀が指名されました)。2通目は、1通目で選ばれた遊亀の仕事ぶりを気に掛けながら、潤一郎から贈られた『細雪』の感想を伝えています。また、静養中であることを伝え、知人の死を悼む内容などが連なっています。

    この書簡における靫彦の書は、余白の取り方、点の分布などが造型的で緻密ながらも、それを感じさせない自然な趣です。草書の崩し方は、羲之や懐素にも通じます。絵と書によって培われた靫彦ならではの清澄な線で条々と書き進められ、丁寧な筆致が潤一郎への敬意を感じさせます。このように書の技量は確かなもので、昭和29年の「斎宮女御」や昭和31年の「良寛和尚像」などのように仮名で賛文をしたためた作品もあります。

    靫彦の芸術には、古美術から学ぶ姿勢が下敷きにあります。23歳の時、天心のはからいで奈良に赴き、法隆寺金堂壁画の模写などに携わったことは大きな契機となりました。また、三渓原富太郎の援助を得たことも幸いでした。とりわけ良寛の書において高い鑑識眼を持ち、優良なコレクションを形成した靫彦は、昭和35年に筑摩書房から『良寛』を発行しています。良寛堂建立に際して中心的役割を果たし、その顕彰活動に力を注いだことでもよく知られます。

    靫彦の書画に目を向けると、日本画家として歴史に謙虚に向き合いながら、新しい時代を生きる靫彦独自の洗練された表現を見出したことがわかります。この貼り混ぜ屏風には、書画の領域を自由に往還する靫彦の魅力が詰まっているようです。(谷本真里)

     

    【ご紹介した作品】
    谷崎潤一郎宛書簡 六曲半双