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  • 12、古写経手鑑『穂高』

    12-1、松﨑コレクションと古写経手鑑『穂高』の概要

     

    青鳥居清賞 松﨑コレクションの概要

    平成30年、松﨑春川先生、中正先生が二代にわたり長い年月をかけて蒐集したコレクションを一括でご寄贈いただき、それを契機に展覧会を開催しました。
    その内容は、平安から南北朝時代までの古筆57件と古写経67件、古筆手鑑『濱千鳥』、古写経手鑑『穂高』さらに書家である春川が手掛けた「本願寺本三十六人家集」の複製3件です。これまで未公開のものが数多く、本展をきっかけにその全貌が広く知られるところとなりました。
    主に父春川が古筆を、子中正が古写経を蒐集しました。春川は小野鵞堂流の大家で写経では指折りとされる書家として活躍。地元埼玉の高校で漢文、書道を教えていました。ご子息中正先生は英語の先生で高校の校長を務められ、山が好きで、わが国でも最も長い歴史を持つ日本山岳会の古くからの会員であり山の著書は何冊もあります。校長をお務めの時には、自身で卒業証書を一枚ずつ揮毫するなど時に能書として腕を振るわれました。
    松﨑先生のお宅は江戸時代から続く旧家で、春川先生以来、斎号を青鳥居(せいちょうきょ)と呼んでいます。展覧会は松﨑父子が愛玩されたコレクションということで、「青鳥居清賞」と名付けました。

     

     

     

    古写経手鑑『穂高』の概要

     

     

    古写経手鑑『穂高』は、中正先生が一葉ずつ寄せて、今回の寄贈をきっかけに新調した古写経手鑑です。上下2冊の帖と浅型の6段桐重箱から成り、それらを一式として箪笥に収めたものです。文化財修復で知られる半田九清堂に制作を依頼し、それぞれの断簡には裏打ちをせず、経巻の風合いや質感を残したまま台紙に貼り込んでいただきました。手鑑においては断簡の周囲にきれいな紙や布などの縁廻しを入れることもありますが、今回はそのような方針はとりませんでした。『穂高』に収められる79件の断簡は、すべて中正先生の蒐集と選択によるものです。当初から手鑑に編集することを念頭に蒐集したもので、手鑑の名は、中正先生が愛してやまない穂高岳と経切の筆鋒とを重ね合わせて命名されました。

     

    「穂高に寄す」松﨑中正筆 平成29年

     

     

     

     

    箪笥の表には、松﨑家に大正時代から保管されていたケヤキ材を鏡板に仕立て、文字部分を中正先生ご本人に書いていただきました。それを高蒔絵にして桐蓋に嵌め込んでいます。

     


    「穂高」松﨑中正筆

     

    2帖の題字は、漢字で書いているのが中正先生、草仮名で書いているのがご子息の礼文先生。お二人で書きわけていただきました。中に春川先生の写経を収めているので3代揃っています。

     

     


    「穂高」松﨑中正筆

     


    「保多賀」松﨑礼文筆

     

    あえて上下と記さず、天平経の多い上冊は雲紙の藍色の部分を天にし、平安の装飾経が多い下冊は紫色の部分を地として使いました。

     

    地紋に鳳凰(鳥)が入った青系統の表紙裂は「青鳥居」を表し、下冊は黄色の染色を上からかけて黄緑色にしています。
    角金具は松の模様です。松﨑家の松であり、東松山の松であり、松﨑先生のお宅の入口脇にある大松を示すものでもあります。

     

     

    一般的な手鑑と異なる点といえば、極札が裏側に貼ってあること(展示する際にお見せする機会は少ないかもしれません)。多くの断簡に極札が附属していますが、新たに一枚ずつ中正先生に新調していただきました。それをそれぞれの先頭に貼り込んであります。

     

     

     

    極札は、田中親美の工房で作られた料紙を門下の鈴木梅渓が遺してあったものの一部を使いました。春川は親美のもとにも何度も通っています。(田村彩華)

     

    【掲載作品】成田山書道美術館蔵 松﨑コレクション
    古写経手鑑『穂高』 2帖および断簡6葉 上冊:縦36.5×横30.4×厚6.1㎝ 下冊:縦36.5×横30.4×厚6.5㎝

  • 12、古写経手鑑『穂高』

    12-2、伝慈覚大師「色紙金光明最勝王経巻第六」

     

    手鑑の先頭には「大聖武」を入れるのが一般的なスタイルですが、なんといってもこの手鑑の中ではこの「色紙金光明最勝王経」が白眉だと。これを冒頭におきたい。との中正先生のご希望でこの色紙経を最初に入れました。時代としても「大聖武」よりも古い時代のものと考えられます。

     

     

     

     

     

     

     

    現存するものはこの一葉を含めて7枚しかなく、大変珍しいものです。経文を調べてみると、料紙の色変わりの間は116文字、7行分抜けています。もともとは一巻だったか一具だったものを色変わりの色紙経にしたいため、このように継ぎ合わせたのでしょう。鑑賞上の色彩効果を狙ってのことだと考えられています。

     

    この他には、東京国立博物館の掛軸に仕立てられた一葉(7行、淡藍紙)、五島美術館の『染紙帖』に貼り込まれた一葉(8行、紫紙4行+藍紙4行)、陽明文庫の『大手鑑』の一葉(5行、淡藍紙)、個人蔵一葉(4行、藍紙2行+紫紙2行)、個人蔵一葉(3行、淡藍紙)が知られています。色変わりのものはどれも継ぎ目に切り取りがあり経文が続きません。前田家伝来の手鑑(個人蔵)に押されている色紙経(8行、紫4行+藍紙4行)は唯一経文の続く一葉です。

     

    中正先生は、「紫色と薄藍の料紙を継ぎ合わせ、薄墨の界を引いて、点画の確実な手によって書かれた端正な唐風文字の写経の断簡である。料紙の紫と藍の色彩効果も美しいが、文字が見事である」と述べ、希少価値の高いこの断簡を特に大切にされていました。

     

    写経生の中でも色紙経に書写できるのは特に腕の立つ優秀な人だったのでしょう。雄勁で隋唐の書に倣った風が見られるこの色紙経は、奈良時代の写経を代表するものです。その後、平安時代に盛行する装飾経の先駆をなす遺墨とも言えるでしょう。この手鑑の冒頭を飾るのにふさわしく、堂々とした存在感を見せています。(田村彩華)

     

     

    【掲載作品】成田山書道美術館蔵 松﨑コレクション(古写経手鑑『穂高』)
    伝慈覚大師筆 色紙金光明最勝王経巻第六 奈良時代 彩箋墨書 24.0×15.0㎝

  • 12、古写経手鑑『穂高』

    12-3、6葉の「蝶鳥下絵経」

     

    蝶鳥の下絵が入った写経は数多く遺されています。中正先生もとても丁寧に集めていらっしゃいました。料紙だけでも数種類確認され、色紙、香紙、丁子吹きのもの、素紙などがあり、金銀を主に緑青泥を用い、蝶、鳥、草花、折枝などの下絵を天地、または一面に描いています。『穂高』には雰囲気の異なる6種類を下冊の冒頭に収めています。

    手鑑では冒頭の伝聖武天皇筆「大聖武」の次に押すのが通例で、国宝手鑑など多くの手鑑に名物切として収められます。筆跡は異なるものの「蝶鳥下絵経」すべてを伝光明皇后筆としています。しかし、この伝称は和様の女性的な趣を感じさせることから生じたもので、光明皇后よりずっと時代の降るものです。

     

    一番初めの断簡(穂38)はよく見られる象徴的な「蝶鳥下絵経」です。

     


    ※穂38

     

    香紙の茶地の料紙に天地欄外だけでなく紙面全体に蝶鳥などの下絵が施されています。なかにはこのように蝶鳥の下絵を後から書き入れたものもあるようです。

     

     

     

    次に貼り込まれるもの(穂39)も同手で、紙の寸法と罫界線とが穂38と同じです。丁子吹きの料紙で色味がやや異なりますが、近いものと思われます。丁子を煮出した煮汁で染めた紙は古くから尊重され、防虫の効果を果たしていました。虫喰いを防ぐことは写経用紙としては都合がよかったのです。

     


    ※穂39

     

     

     

    次の3行の「蝶鳥下絵経」(穂40)は素紙に下絵の装飾が施された珍しいものです。穂38、39とは書風が異なりますが、金の罫界と寸法、蝶鳥の下絵が似通い、料紙においては近いものと考えられます。

     


    ※穂40

     

     

     

    また、穂41も素紙ですが、穂40とは料紙装飾や書風が異なります。上品に撒かれた金銀の揉箔と控えめな白紙は、一層文字の美しさを引き立てているように感じられ品格高いです。

     


    ※穂41

     

     

     

    こちら(穂42)は素紙に銀を主に金泥と薄い緑色を用いて蝶鳥と草花折枝が描かれています。装飾は素朴で簡素なものですが丁寧に描かれ、紙面に華を添えています。文字は抑揚のきいた和様体です。

     


    ※穂42

     

    実はこの断簡、もともと一巻だったものから切り離しています。その一巻は松﨑コレクションにあります。

     

     

    最後の断簡(穂43)は、淡藍に染められた紙に金の揉箔が撒かれたもので、一般的な丁子吹きの「蝶鳥下絵経」とは異なる色紙に書写されたものです。

     


    ※穂43

     

     

    紫、茶、黄、緑、藍、白色などと色変わりの紙を継いで書写するもので、それを分割するとこのような「蝶鳥下絵経」になります。抑揚の効いた線で、丸みのある穏やかな風が料紙と相まって美しいです。センチュリーミュージアムコレクションの紫紙に蝶鳥下絵を施した4行の断簡と一連のものと考えられます。

     

    「蝶鳥下絵経」は光明皇后を伝称筆者にあてていますが、書風、下絵の技法が「桂本万葉集」に類似することなどから、平安時代中ごろのものと推定されています。金銀泥で蝶鳥折枝を描き、さらに金銀の箔を撒いて、本文は優美な和様の写経。平安貴族の美意識を反映しています。『穂高』には6葉の「蝶鳥下絵経」が貼り込まれ、料紙や書きぶりが異なりそれぞれに見どころがあります。(田村彩華)

     

     

    【掲載作品】 成田山書道美術館蔵 松﨑コレクション(古写経手鑑『穂高』)
    ※穂38 伝光明皇后筆 蝶鳥下絵経 装飾法華経譬喩品第三 平安時代 彩箋墨書 23.9×18.4㎝
    ※穂39 伝光明皇后筆 蝶鳥下絵経 装飾法華経安楽行品第十四 平安時代 彩箋墨書 24.1×5.6㎝
    ※穂40 伝光明皇后筆 蝶鳥下絵経 装飾観普賢経 平安時代 彩箋墨書 23.2×5.4㎝
    ※穂41 伝光明皇后筆 蝶鳥下絵経 装飾法華経信解品第四 平安時代 彩箋墨書 24.9×1.7㎝
    ※穂42 伝光明皇后筆 蝶鳥下絵経 装飾法華経嘱累品第二十二 平安時代 彩箋墨書 25.5×19.0㎝
    ※穂43 伝光明皇后筆 蝶鳥下絵経 装飾法華経妙荘厳王本事品第二十七 平安時代 彩箋墨書 22.5×5.4㎝
    番号は『青鳥居清賞 松﨑コレクションの古筆と古写経』図録と対応しています。

  • 12、古写経手鑑『穂高』

    12-4、特寸の断簡「二月堂焼経」

    古写経手鑑『穂高』のひとつの特徴は、折帖に貼り込むことのできない長尺の断簡を折帖とは別にして収めていることです。
    このようにして6段収めています。

     

     

     

     

     

    「二月堂焼経」

    東大寺の二月堂に伝来したもので、江戸時代の寛文7年(1667)2月、二月堂で開催された修二会(お水取り)での火災で焼損があることからこの名で呼ばれています。

     


    ※穂76

     

    天の方から火が入ってしまっているものもあれば、地の方に損傷があるものも。また、あまり焼けずに本文がほとんど遺っているものもあり、その姿は様々です。『穂高』には4葉貼り込まれています。

    文字は銀泥で書いているのではなく、よく見ると別のもの。銀泥で書いていたら酸化して黒くなっているはずです。はっきりとしたところはわかりませんが、おそらく胡粉のようなもので書写され、のちに磨かれているのでしょう。
    顔料を膠で溶いているので、膠が弱くなると剥落してきます。そのため修復するにあたり、水を通す前に膠水溶液を文字の上から入れて止めていただいています。そうしないと文字が落ちてしまうのです。

    写経用紙は本来、本紙のまま軸をつけて巻き、裏打ちをしません。しかし、このように火災を受けたり損傷したりすると裏打ちをすることになります。この手鑑においてはほとんどの断簡の裏打ちや台紙を取り除きましたが、「二月堂焼経」に限っては江戸時代の紺紙による裏打ちの印象が定着しているため、そのまま収めていただきました。

     


    ※穂12

     


    ※穂13

     


    ※穂14

     

    本文としては焼けてしまい不完全な形になったわけですが、私たち日本人は焼けてしまった痕跡さえも愛でながら大切に遺してきました。紙の色も書きぶりも焼け跡もどれも少しずつ異なり、その姿はそれぞれに魅力があります。(田村彩華)

     

    【掲載作品】 成田山書道美術館蔵 松﨑コレクション(古写経手鑑『穂高』)
    ※穂76 二月堂焼経 紺紙銀字華厳経巻第十四 奈良時代 紺紙銀字 25.8×80.3㎝
    ※穂12 二月堂焼経 紺紙銀字華厳経巻第二 奈良時代 紺紙銀字 24.7×25.9㎝
    ※穂13 二月堂焼経 紺紙銀字華厳経巻第十六 奈良時代 紺紙銀字 26.3×18.5㎝
    ※穂14 二月堂焼経 紺紙銀字華厳経巻第二十四 奈良時代 紺紙銀字 27.4×9.9㎝
    番号は『青鳥居清賞 松﨑コレクションの古筆と古写経』図録と対応しています。

     

  • 12、古写経手鑑『穂高』

    12-5、特寸の断簡「金峰山埋経」

     

     

    藤原道長(966-1027)が、寛弘4(1007)年に奈良県吉野にある金峰山に埋納した写経の一部です。当時、悪疫の流行や内裏焼亡など立て続けに起きる凶事に、道長自ら筆を執ったのです。江戸時代に発掘されました。長いあいだ土中にあったため下半分が焼け崩れてしまっています。

    巻物の状態で納められていたため、金字の経文が裏写りし付着しています。本来であれば裏打ちをしたり貼ってしまったりするので紙背は確認できません。しかし、今回は裏打を施さず、紙の質感を残して収める方法を工夫していただき裏側が見えます。

     

     

     


    (裏面)

    はっきりと文字を読み取ることができますね。
    現存する埋経としては早い時期のもので、その後各地で経筒に入れた写経を奉納する経塚が営まれるようになりました。「金峰山埋経」は道長自筆の遺墨としても貴重で、その書きぶりから能書であったことがわかります。(田村彩華)

     

    【掲載作品】 成田山書道美術館蔵 松﨑コレクション(古写経手鑑『穂高』)
    藤原道長筆 金峰山埋経 紺紙金字法華経安楽行品第十四 平安時代 紺紙金字 14.5×37.8㎝

  • 12、古写経手鑑『穂高』

    12-6、特寸の断簡「泉福寺焼経」

     


    ※穂79

     

    「焼経」といえば「二月堂焼経」が思い出されますが、同じ経文の『華厳経』を書写した「泉福寺焼経」もまた違う魅力があります。こちらは天地の焼けも本文を損なうことなく、一紙分がきれいな姿で遺っており状態の良いものです。

     

    手鑑に仕立てる際に、焼け跡は崩れ落ちてしまわぬよう、薄い補修紙を裏側に当てていただきました。

     


    (「古写経切の修理及び手鑑「穂髙」の仕立てを終えて」株式会社半田九清堂 『青鳥居清賞-松﨑コレクションの古筆と古写経』古写経篇105頁から転載)

     

    紙は淡い藍色で、漉き返し紙といわれています。華厳経60巻分の紙を同じように漉いて用意するのは大変なことです。一度漉いた紙をほぐして繊維状に戻し、もう一度漉き直す方法をとることによって比較的安定した色味に揃えられたのではないでしょうか。

    藍紙の古筆として有名な「藍紙本万葉集」は、伝称筆者を藤原公任と伝えていますが、今日では藤原伊房(1030-1090)の真筆と考えられています。同時代ころのものと考えると11世紀中ごろから12世紀にかけて作り出されものなのでしょう。装飾経としては早い時期のものと思われます。「二月堂焼経」より時代は降り、同じ経文でもこちらは柔らかな風で平安らしい清楚な印象です。また、疎らに撒かれた大振りな揉箔が上品です。

     

     

     

     

    『穂高』にはあと2葉収められています。特寸のものよりは焼損の範囲が広いですが、どれも料紙と文字と焼損とが調和してそれぞれに違う表情を見せています。

     


    ※穂49

     


    ※穂50

     

     

     

    長尺の断簡の極札は裏に貼ってあります。

     

     


    (裏)

     


    極札(松﨑中正筆)

     

     

    現代にこのような手鑑を仕立てることも多くないでしょう。平成の時代に仕立てられた手鑑としても、古写経のみの手鑑としても質量ともに注目されるものと思います。(田村彩華)

     

    【掲載作品】 成田山書道美術館蔵 松﨑コレクション(古写経手鑑『穂高』)
    ※穂79 泉福寺焼経 装飾華厳経巻第八 平安時代 彩箋墨書 25.0×50.4㎝
    ※穂49 泉福寺焼経 装飾法華経巻第三十 平安時代 彩箋墨書 22.9×23.9㎝
    ※穂50 泉福寺焼経 装飾法華経巻第三十三 平安時代 彩箋墨書 16.7×23.0㎝
    番号は『青鳥居清賞 松﨑コレクションの古筆と古写経』図録と対応しています。