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  • 16、浅見喜舟・錦龍と千葉の書

    16-1  浅見喜舟・錦龍と千葉の書 受け継がれる房総魂

    当館では千葉県書道協会との共催で、過去8回「千葉県書道協会役員展」を開催しています。千葉は首都東京にほど近く、多数の作家がつどう土地柄です。様々な土地の出身者が集まる一方、温暖な気候と豊かな食産品に支えられ、継続的な文化を育んできました。

    書においても小野鵞堂や石井雙石など、近代以降時代を代表する作家を多数輩出していますが、世代を超えた継承という面で、千葉師範学校(現千葉大学)を中心とした学校教育が基軸にあることはいうまでもありません。

    明治16年から41年まで千葉師範学校で教鞭を執り、今日の千葉の書の礎を築いたのが香川松石です。

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    松石61歳の時の作品です。

    佐倉出身の松石は、御家流、次いで巻菱湖、日下部鳴鶴と当時の公用書体を担った書を学び、初学者が学びやすい穏健な和様を得意としました。このため、国定教科書の揮毫者に選出され、全国でその書が学ばれることになったのです。その系譜は板倉潭石を経て、昭和4年に群馬出身の浅見喜舟に受け継がれます。のちに喜舟は千葉師範の学生が、松石の肉筆折手本で学んでいることに驚いたと明かしています。

    浅見喜舟の作品がこちらです。

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    字間をあけ、余白を生かした運筆で、明るいイメージの作品です。青墨を使い、カスレを生かした表現は、画もよくした喜舟らしい表現です。

    浅見喜舟は、文検指導で名を馳せた木俣曲水に師事し、教育者としての資質を多分に有していました。戦後、散り散りになっていた県内の作家に声をかけ、昭和22年に千葉県書道協会を設立するなど、全国に先駆けた活動で千葉の書の発展に心血を注ぎました。来る者は拒まずの喜舟の姿勢は、地域性を超えた千葉の書風の広がりに表れています。

    喜舟の系譜を受け継いだ一人、昭和5年に千葉師範学校を卒業した高澤南総の作品です。

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    浅見喜舟が千葉師範学校で初めて送り出した卒業生が高澤南総です。こちらの作品は南総が超難関の文検を突破した23歳の時のものですが、非常に精緻で完成度の高い臨書です。この後南総は田代秋鶴に師事し、副島種臣に私淑して懐の大きい書を多く遺しています。喜舟の後、40年余りも千葉大学で後進の指導にあたりました。

    昭和6年に千葉師範学校を卒業した中村象閣もまた、喜舟に教えを受けた一人です。

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    象閣もまた、卒業後は文検合格者として千葉の教育に尽力しました。田代秋鶴や尾上柴舟にも益を受けた書は、虚飾を排し、朴訥な中にも直に心情を伝える強さを感じます。象閣は戦後の物資不足の中、学校環境を復興した経験を活かし、昭和29年のへき地教育振興法の制定に大きな役割を果たしました。(山﨑亮)

     

    【掲載収蔵作品】

    ※1香川松石 躍龍 1幅 紙本墨書 136.8×67.3㎝ 明治37年 香川輝彦氏寄贈

    ※2浅見喜舟 大巧如拙 1幅 紙本墨書 132.5×34.3㎝ 昭和53年太玄展出品作 浅見錦龍氏寄贈

    ※3高澤南総 臨九成宮醴泉銘 3幅 紙本墨書 各175.9×47.2㎝ 高澤雅枝氏寄贈

    ※4中村象閣 早野巴人・松尾芭蕉句 二曲半双屏風 紙本墨書 各133.6×45.7㎝ 中村信義氏寄贈

  • 16、浅見喜舟・錦龍と千葉の書

    16-2  浅見喜舟・錦龍と千葉の書 受け継がれる房総魂2

    父浅見喜舟の遺志を継ぎ、書星会を率いて日本全国に「書星会ここにあり」と名を馳せたのが浅見錦龍です。文人肌で教育者としての一面を持つ父喜舟の影響を受けながらも、手島右卿に益を受け、現代書の醍醐味ともいえる壁面芸術としての特徴を存分に生かした大画面の作品に積極的に取り組みました。

     

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    「丁當」は玉が触れ合う麗しい音色を表しますが、こちらの作品からは強い気迫を感じます。まるで決断を促す玉玦の響きです。直情的な表現は錦龍の得意とするところですが、心に響く余韻は、戦時中特攻隊員として待機し、生死のはざまを体験した経験が作品に表れているからかも知れません。

     

    千葉師範以来、浅見喜舟の薫陶を受け、自らは近代詩文書の世界で輝いた一人に種谷扇舟が挙げられます。現代人が理解しやすい口語文体は、時に書の持つ高雅さとの両立が課題となりますが、扇舟は中国の古典に学ぶことでこれを克服しようと決意、数万点にも及ぶ拓本を蒐集し、中国には国交が正常化される前から足しげく通って書法の摂取に励みました。こうした活動は、日中関係の潤滑油として大きな功績を遺しています。

    平成6年の個展で発表された作品がこちらです。

     

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    鄭道昭に私淑し、スケールの大きな摩崖碑に魅了された扇舟らしい一作です。扇舟は55年間、県内で教鞭を執り後進を指導しました。その遺風は今も生き続けています。

     

    千葉師範学校で喜舟の指導を受け、その後田代秋鶴に師事した鈴木方鶴は、長きにわたり千葉で教鞭を執る傍ら、私淑した渡辺沙鷗の研究をまとめました。50代で没し、震災や空襲で消えかけていた沙鷗の資料をまとめ上げた業績は特筆に値します。鈴木方鶴の作品がこちらです。

     

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    この作品からも感じられるように、一画をおろそかにしない安定した書きぶりで、落ち着いていて味わい深い書をよくしました。

    千葉師範学校を卒業後、生涯を千葉で過ごしながら尾上柴舟、ついで日比野五鳳と戦前、戦後を代表する作家の薫陶を受けた高木東扇は、粘葉本和漢朗詠集を根底に置く上代様を重んじた柴舟から、骨格のあるかなを大きく書くことで壁面芸術の可能性をひき出した五鳳に続く現代かな書の変化の道程を間近で学び、千葉の書にも新風を起こしました。

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    こちらは東扇68歳の時の作です。使い込んで穂先が減った京都龍枝堂製「鳳友」の小を使い、九段下玉川堂製「加工一番」の半切に書かれた作品は、穂先が紙をしっかり掴み、また筆の弾力を生かした筆運びで生命力がみなぎり、高揚感に満ちています。

     

    同じく尾上柴舟の下で書に励んだ奥田家山も千葉の書を支えた一人です。内閣総理大臣官房の辞令専門官として公の書を支える一方、書作では歌人としての才能を生かし、自詠歌を料紙と調和させた情感あふれる作品を多く遺しました。

     

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    この絶筆となった平成10年の日展出品作は、毎日使う小筆への感謝を自詠の長歌と自らの書画で表した作です。仰々しさとは無縁の自然体の美しさがあふれています。(山﨑亮)

     

    【掲載収蔵作品】

    ※1浅見錦龍 丁當 1幅 紙本墨書 172.9×68.8cm 平成21年改組第41回日展出品作  書星会寄贈

    ※2種谷扇舟 悠遠なる摩崖碑 10幅 紙本墨書 各237.1×57.2cm 平成6年個展出品作 種谷萬城氏寄贈

    ※3鈴木方鶴 高人多愛静 1幅 紙本墨書 138.1×33.2cm  鈴木栄子氏寄贈

    ※4高木東扇 元日の空 1幅 紙本墨書 136.9×34.7cm 昭和62年 高木厚人氏寄贈

    ※5奥田家山 貂の小筆 1面 紙本着色墨書 45.2×70.4cm  平成10年改組第30回日展出品作 奥田育子氏寄贈

  • 16、浅見喜舟・錦龍と千葉の書

    16-3  浅見喜舟・錦龍と千葉の書 受け継がれる房総魂3

    戦後日本の高度経済成長を首都東京のベットタウンとして支えた千葉県は、それまでにも増して人の往来や思想の交流が盛んになりました。千葉を多彩に彩る作家をご紹介します。

     

    君津出身の千代倉桜舟は昭和18年に応召後、シベリア抑留を経て帰国し、体育館で筆を持って走り回るような大作や、アルファベットまで駆使し、魂に訴えかけるような情感あふれる書を多く遺しました。

     

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    宗左近の実体験を詠んだ衝撃的な詩を桜舟は朱墨と観音像を摺り込んだ紙でまるで走馬灯のように書き上げています。空襲と抑留の違いこそあれ、戦争の過酷な体験が通じ合ったのでしょう。戦後桜舟は大澤雅休・竹胎率いる平原社に参加し、活動を共にしました。農民出身で、等身大の人々を表現したいと考えた雅休・竹胎の開拓者精神あふれる平原社の思想がここにも表れています。

     

    群馬出身の小暮青風は国府台女子学院などで教鞭を執り、市川市の図書館長を務めるなど千葉の文化に寄与する傍ら、鈴木翠軒に師事して慈味あふれる書を多く遺しました。

     

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    学生時代からアララギに投稿するなど文学への造詣の深かった青風は、万葉歌や松尾芭蕉の句を多く書いています。墨の濃淡を生かした表現で、はかなさと強さが交わりあった深みを感じます。

     

    船橋出身の金子聴松もまた千葉師範学校で学び、その後師の金子鷗亭とともに、戦後の大衆に開かれた芸術書の確立を目指し、全国的な活動を展開しました。一方で故郷千葉では長年教鞭を執り、千葉の書の啓蒙に努めました。常に冷静で、大人の風があったといわれています。

     

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    平成10年の毎日書道展五〇回記念日本の書の現在展に出品された作です。敦煌の莫高窟を訪れた感慨を自らの言葉で書いています。大作の大字作品ですが、余白の白が生き、すっきりとした明るさを感じることができます。生と死の境界線に想いをはせる聴松の心情が察せられ、得意とした剣道の「残心」にも似た余韻を感じる一作です。

     

    東京に生まれた揚石舒雁は東京学芸大学卒業後、千葉で教鞭を執る傍ら、幕張出身の中台青陵に私淑し、回瀾書展などで活動しました。展覧会全盛の現代に生きた舒雁でしたが、一方で文人的思想を持ち、日常の生活で使われる書を大切にしていました。当意即妙を是とする舒雁の作品は、一枚書きが多かったといいます。

     

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    壮年時には赤羽雲庭に作品を「繊弱」と評された舒雁でしたが、晩年のこの作からはそのような印象は感じられません。重みを増した書は、六朝碑や趙之謙などの影響を感じます。その強さをただ前面に出さない技術は舒雁の真骨頂でしょう。舒雁はクラッシックを聴きながら作品制作をしていました。このあたりに舒雁独特の風の秘密がありそうです。

     

    今週は浅見喜舟・錦龍と千葉の書ということで収蔵品をご紹介しました。千葉はゆかりの作家がとても多く、1週間では全貌を捉えきれません。改めて別の機会にご紹介できたらと考えています。(山﨑亮)

     

    【掲載収蔵作品】

    ※1千代倉桜舟 燃える母 十曲一双屏風 紙本朱墨書 各128.0×64.9cm  平成2年個展出品作

    千代倉桜舟氏寄贈

    ※2小暮青風 萬葉歌二首 1面 絹本墨書 各157.9×39.9cm  平成元年現代書道二十人展出品作 松声会寄贈

    ※3金子聴松 敦煌莫高窟の荘厳を拝し出て 1幅 紙本墨書 237.1×88.8cm  平成10年毎日書道展五〇回記念日本の書の現在展出品作 金子均氏寄贈

    ※4揚石舒雁 石濤詩 1面 絖本墨書 51.6×107.5cm  平成10年 揚石隆一氏寄贈