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  • 17、貫名菘翁と近代京都の書

    17-1 貫名菘翁
    大字屏風「茶香」「酔趣」、「糺林旗亭」

     

    讃岐に生まれた貫名菘翁は、文化文政期の文人趣味が最高頂にあった幕末を生き、やがて京の市井の儒者として名を馳せました。幼少より漢学に触れ、書は西宣行に学んでいます。17歳の頃、高野山に赴き山内の図書を読破し空海に私淑、大坂の懐徳堂に22歳で入門して塾頭も務めたといわれます。そして34歳のときに京で私塾「須静堂」を開講し、身を立てました。詩書画の世界それぞれに名を顕しましたが、とりわけ書の名手として知られ、幕末の三筆に数えられます。

     

    号は字面のとおり、京都の名産すずな(蕪の古名)に因みます。菘翁はとりわけ晋唐の書を正しく伝えようとしました。世に流布する粗悪な石摺を棄て、原石原拓の碑版法帖を蒐集し、さらに日本に伝来する唐人の真蹟も求め、晋唐書法の真相に迫ろうとしました。「蘭亭序」や「十七帖」の拓本に関しては数十も集め、それらを比較して個々の良否を判断しています。また、比叡山に登って「越州録」の跋にある鄭審則の書を、香川萩原寺で「急就章」を臨模しています。「急就章」には跋を加えており、空海の書について東寺にある有名な「風信帖」とこの「急就章」が優れていることを伝えます。菘翁は、書におけるたしかな歴史観と鑑識眼がありました。

     

    晋唐の正統を伝承していく流れは、こうした菘翁の存在が中核にあります。やがて京都では、六朝書道の隆盛へと向かう江戸とは対照的に、王羲之書法に立脚しながら日本の優美さを融化する書を展開していくのです。

     

    今回ご紹介する2点の作品はいずれも菘翁最晩年の作品です。

     

     

    許渾の詩「茶香秋夢後、松韻晩吟時」を書き、金があしらわれた右隻は明朗で、理想的な文人の姿を思わせます。それに対して左隻は「酔趣、但得酔中趣、勿為醒者伝」、落款には酔書とあり、李白の詩「独酌」の一節を書きます。酔中の趣を伝える詩に、酸化して黒光りする銀の渋みが妙味を加えています。菘翁晩年のダイナミックな表現です。菘翁は時折こうした大字作品を手がけていますが、そのなかでも優品に数えられる作でしょう。

     

    https://youtu.be/E9WX7iPx1Vw
    ▲こちらから動画をご覧ください

     

    菘翁といえば、最晩年は中風を患ったことで知られます。85歳の春のことです。約半年の間は筆を執ることも困難でした。秋になって漸く筆が執れるようになってから歿するまでの一年間は劇的に書風が変化します。その間の翁の書を、上田桑鳩は「芸術家としては至上の幸福で、(中略)もはや八十四年という永年の犠牲は論ずる必要はない」(二玄社『貫名菘翁』)と評します。こちらの「糺林旗亭」はまさにその時期の作です。

     

     

     

    菘翁は79歳で、所有する主要な書籍を下加茂神社に奉納し、これを「蓼倉文庫」と名付けました。同時に自らも岡崎から下加茂に転居して、それらを見守りながら生涯をまっとうしました。この作品は最期86歳の作とみられます。「糺林」は下鴨神社の境内の森を指しており、酒亭に興じた様子を詠います。最晩年はこの地で自身の理想を追い求めたのでしょう。谷口藹山の描いた「須静堂先生自賛肖像」における85歳の翁の柔らかな表情も、熟境への到達を感じさせます。

     

    詩書画に通じ、京の文人サロンの中心に身を置いた菘翁は、生涯学問を重視しており書や画をもって称されることを好まなかったといいます。しかし、王羲之や孫過庭らをベースに練り上げられたその書は、次の時代の書壇に大きな影響を残しました。晋唐書法から奈良平安の書へ、そして江戸の唐様へ。こうした流れを紡いだ菘翁に、今日の京都書道の原点がありそうです。(谷本真里)

     

     

    「岡寺版墨帖」(当館蔵) / 「須静」印拡大

     

    【掲載収蔵作品】
    大字屏風「茶香」「酔趣」 二曲一双 秋田・小川家旧蔵
    「糺林旗亭」 一幅 紙本墨書 127.5×45.0

  • 17、貫名菘翁と近代京都の書

    17-2、頼山陽 「五言古詩」「合作書画巻」

     

    頼山陽(1780-1832)は大阪に生まれ、幼少から広島藩の儒臣となる父・春水と教養ある母・梅颸のもとで、詩作に興じて育ちます。18歳で江戸に一年ほど遊学しました。20歳で結婚しますが、脱藩を試みた山陽は罪を免れたものの、離縁廃嫡となり、幽閉生活を送ります。やがて謹慎生活を経て自由の身となった山陽は、仕官することを好まず、主に詩文や書画などを教授して一生を過ごしました。菅茶山の廉塾を手伝い、学頭になったこともありましたが、自身の心に従うように、茶山の許可を得て再び出奔します。そうして32歳で私塾を開き、京都に住み着いたのでした。

     

    34歳の山陽は「今日も絹地五幅したため、一向寸暇なし」と伝えます。また、50歳を迎えて京都に母梅颸を迎えました。その母の記録には揮毫に追われる過密スケジュールが記されており、当時いかに名を轟かせていたかを物語ります。“当世書家競“という番付では大関に山陽の名が確認され、詩文のみならず書の腕前も市中に広く知られていたことがわかります。画についても、当時の大家である田能村竹田が「素人ではあるが、玄人でも及び難きがある」と評するほどでした。

     

     

    文政11(1828)年制作 落款は名の「襄」

     

     

     

    山陽は京都の文人サロンで、瞬く間に中心的な存在となりました。この作品は、雲華大含の依頼で宋版の阿弥陀経に跋を施した礼に古銅の蓮の筆架を受け取ったことを詩に詠んで書したものです。書風としては、董其昌や米芾を学び、私淑していた倪元璐の風を感じます。ちなみに雲華大含とは豊後の山国川の渓谷に遊んだこともある間柄です。そこを「耶馬渓」と名付けたのは山陽で、以降その景勝地に多くの文人が訪れるようになったといいます。

     

    https://youtu.be/-LGOpHpGMog
    ▲「合作書画巻」はこちらからご覧ください

     

    また、この巻子本は、山陽と同郷の岡田半江(岡田米山人の子)が中心となって、山陽や浦上春琴(浦上玉堂の子)と書画を何度かやり取りした様子がわかるものです。山陽が新たに入手した書幅について論じ合います。同世代の文人同士の純粋な交流は、彼らにとって娯楽そのものでしょう。この書画には京の文人サロンの代表的な人物が集います。「濯秀」という斎藤拙堂の題、そして山本竹雲による尾題はあとから加えられています。文人たちの愉悦感は、時を越えてこの筆跡を観る者たちを魅了してきたようです。(谷本真里)※『江戸の書』(二玄社)参照

     

     

    『頼山陽先生真蹟百選』

     

    大雅堂三代目、東山義亮による頼山陽肖像画

     

    田能村竹田による頼山陽肖像画

     

    【掲載収蔵作品】
    「五言古詩」一幅 紙本墨書 135.6×28.8
    「書画合作巻」一巻 13.9×221.0

  • 17、貫名菘翁と近代京都の書

    17-3 松田雪柯 「芳山懐古」「四友図賛」

     

    松田雪柯は代々伊勢の外宮詞官の家元に生まれました。早く京都に出て猪飼敬所に漢学を学び、貫名菘翁に書を学びました。雪柯は、青年時代に菘翁が所有する和漢古法帖の精拓に触れ、菘翁の学書法の奥義を継承したひとりです。また、その頃に吉田公均、中西耕石、日根対山、谷口藹山等の画家、池内陶所、斎藤拙堂、家里松涛等の学者と交流しています。やがて帰郷すると、伊勢神宮の祠官を務めました。

     

    こちらの幅は、菘翁の風を軸にした帖学的で繊細な印象です。旅先での憧憬を、しっとりと書き進めます。

     

     

     

    竹や梅を描いて文墨を象徴する四友を題材に、楊萬里の詩を画賛とした書画からは、身分に捉われずに風流を重んずるという、文人気質な雪柯の世界が広がります。

     

    雪柯といえば、明治13年に来朝した楊守敬に、巌谷一六、日下部鳴鶴と共に書法を問うたことでその名がよく知られています。彼らは六朝の碑帖に大いに感奮しました。一六も鳴鶴もやがてその風を書作に表していきます。一方雪柯は、寡作で楊氏来日の翌年に亡くなったこともあり、その足跡をはっきり捉えることはできません。私たちがお目にかかれる雪柯の作品は、いわゆる明治時代という激動の空気感が漂うものとは、質を異にしています。

     

    鳴鶴の貫名菘翁への私淑は有名ですが、そのキーマンとなるのが雪柯です。

    明治維新後、雪柯は祠官として仕え、山田学校ができるとその教授になり、家塾も開きました。門人には久志本梅荘や松田南溟などがいます。

    転機は明治11年のことです。祠官を辞め、一六、鳴鶴の招きによって上京、一六の家に三年間寓居しました。一六より8歳、鳴鶴より12歳年上の雪柯はリーダー的存在で、段玉裁の『段氏述筆法』を三人で読んだ翌年には、雪柯執筆によって私家版を刊行しました。さらには「述筆法堂清談会」を主宰し、一定期間毎週月曜日に一六や鳴鶴を含めた多くの人びとに教鞭をとっていました。二人ともその勉強会は皆勤賞だったようです。そこでは菘翁に端を発する雪柯の書法や詩書画鑑識のための指導が展開されたことでしょう。

     

    鳴鶴は『鳴鶴叢話』で「私には三人の益友がいる」といい、そこに雪柯、一六、楊守敬の名を挙げます。菘翁の研究成果は、こうして雪柯を通じた脈からも派生して、近代書道の胎動期にたしかな息吹を吹き込みます。
    松田雪柯が長寿を得ていたら…明治の三筆に名を刻んでいたかもしれませんね。(谷本真里)

     

    【掲載収蔵作品】
    「芳山懐古」 一幅 紙本墨書
    「四友図賛」一幅 紙本墨書

  • 17、貫名菘翁と近代京都の書

    17-4 内藤湖南 帖学思想の継承者

    昨年末の今上天皇即位の礼が記憶に新しい方も多いとは思いますが、この作には昭和3(1928)年11月に京都御所で行われた昭和天皇の即位の礼を詠んだ漢詩が書かれています。すでに大正15年に京都帝国大学の教授を退官していた湖南は、「致仕臣」と称してこの盛事を喜んでいます。

     

    側筆を多く使い、縦画を太く、横画を細く、強弱をつけた端正な楷書からは晋唐の書風に範を置いた湖南の思想が看取できます。

    湖南が生きた明治時代は、いわゆる六朝書道全盛の時代でした。長らく王羲之由来の法帖から多くを学んできた日本の書に変化をもたらした要因は、開国により中国との交流が容易になったことにありますが、女真族の統治下にあった当時の清では政権批判につながる恐れのある学問は停滞し、古い時代の古典を精緻に検証することにより結論を見出す考証学が盛んに行われていました。確かな根拠を基に論を展開する必要があるため、確実な真蹟が存在しない王羲之よりも、王羲之と同時代で、碑や拓が多く存在する北碑が注目を浴びたのです。明治の世になり、革命ともいうべき新時代に心をはせた日本の書家が当時の中国に触れて、盛行していた野趣の気があり、生命感あふれる碑学派の書に傾倒したのは自然の流れだったのかも知れません。

    このような風潮に湖南は危機感を募らせます。六朝賛美派として知られた中村不折ら龍眠会の活動を批判、東洋学の研究者としての視点から、安易な六朝碑崇拝に疑問を呈します。異民族が漢族化する中で遺したものと中国でも長い間等閑視されていた北碑よりも時代を超えて崇拝された王羲之にこそ真実があると訴えました。(史的に考えれば、六朝の書は異民族が中国文化を受容する過渡期の遺物といえるでしょう。)

    湖南の生きた明治から昭和の時代は、西洋的概念の圧倒的侵襲を受けた激動の時代でした。東洋学の泰斗であった湖南が王羲之を範とする晋唐の古典を重視したことは、日本古来の法帖に学ぶ学書のスタイルの再評価にも繋がりました。まさに京都の書の継承者の一人といえるでしょう。(山﨑亮)

     

    【掲載収蔵作品】

    ※内藤湖南 七言絶句 1幅 絹本墨書 157.7×41.1cm 昭和3年  大橋南郭氏寄贈

  • 17、貫名菘翁と近代京都の書

    17-5、煎茶会、書画会に集う人びと    富岡鉄斎「条旗」「茶褥」、「山紫水明処書画会合作」

     


    ※1 富岡鉄斎「条旗」表

     


    ※1 富岡鉄斎「条旗」裏

     

    これは煎茶席を設けたときに用いられる条旗です。茶席をしていることが目に付くように掲げていました。富岡鉄斎(1836-1924)最晩年の揮毫によるものです。「清風」の語は、江戸時代の黄檗宗の僧で、煎茶の中興の祖として有名な賣茶翁の時代から伝統的に用いられていました。

     

     


    ※2 富岡鉄斎「茶褥」 松雨蕉風入影来。八十九叟鉄斎。

     

     

    こちらの茶褥も条旗と一具をなすもので、実際に茶道具の下に敷いて使っていたのでしょう。

     

    鉄斎は早くから富岡家の学問である石門心学を学び、岩垣道昂について漢学を学んだのち、大国隆正の門で国学を身につけます。絵は浮田一蕙や小田海倦に手ほどきを受けますが、師風を全く感じさせない独特の表現に至りました。維新後に山中信天翁、江馬天江らとともに西園寺公望の立命館に招かれています。しばらく神職を務め、京都市美術学校などで後進の指導にもあたり、画壇で活躍する一方で、画の材料や和漢の歴史書、詩文などに高い関心を寄せ儒者的な一面もありました。

    鉄斎はあらゆる書画や法帖類などを昇華して、大胆にそして自在に筆を運ぶ作品が多く見受けられます。それらと比較するとこの条旗や茶褥は、いくらか慎重な筆運びと見られ、最晩年を迎えた鉄斎の表現者としての境地を示しているようです。

    晩年は、内藤湖南(1866-1934)や狩野君山(1868-1947)、長尾雨山(1864-1942)らの京都学派の学者たちと交流がありました。感覚の優れた鉄斎は、京都の学者らを通じて最先端の学問を取り入れ、これまで培ってきた自身の知識と融合していくことを楽しんでいたようです。

     

     

     

    これらは茶褥と条旗の箱書きです。

    大正13年、鉄斎没年の揮毫であることがわかります。鉄斎は大正13年12月31日に亡くなっており、数えで89歳。この年より九十歳の落款を用いることもありました。

     

    この時代はこうした煎茶会が頻繁に行われていました。
    頼山陽らの時代から文人たちに愛された煎茶は、維新後もその様式を発展させ、古書画や古器物、文房具類の展観などが茶席とともに設けられることが一般的となりました。文人たちが所蔵する書画類を持ち寄って鑑賞し、それが彼らの書画に影響していったのです。古器物などに対しても高い関心があったことがわかります。

     

    また、各地で書画会も頻繁に行われ、文人たちは詩書画の制作をしながら時には寄り集まってその場を楽しんでいたようです。

     


    ※3

    こちらは明治11年5月、鳩居堂主人、熊谷直行が設けた書画展観会で執筆された合作です。場所は鴨川に近い頼山陽の旧居である山紫水明処。詩や書画にすぐれ、煎茶に親しんだ頼山陽の面影を残す場所で、山中信天翁(1822-1885)、宮原易安(1805-1885)、田能村直入(1814-1907)、板倉槐堂(1823-1879)、江馬天江(1825-1901)、村瀬雪峡(1827-1879)の京都の文人6人が集まって書や画を寄せています。

     


    山中信天翁

     


    田能村直入

     


    村瀬雪狭

     


    宮原易安

     


    江馬天江

     


    板倉槐堂

     

    この日の次第を記した識箱は村瀬雪峡によるものです。

     

       

     

    表:西京鴨川水明楼小集諸先生書画
    裏:明治十一年五月鳩居堂主人為余饗応設古書画展覧会於西京鴨川水明楼諸先生咸集
    終日扛歓又香淪茗相与賞鑒以為娯楽使人怡然情逳神賜矣於是諸先生交援筆随意作
    書画以為一幅又期他日有感此韻事也 雪峡

     

    鳩居堂のような町衆が会主となる書画会が各地で類繁に開催されました。
    書画を求める人びとの要望に応じる場だけでなく、文人たちが互いに交流して知識を養う場としての意味合いもあったようです。文人たちは紙面に書や画を交え、配置や内容、表現に気を遣いながら仕上げていくため、他者の考えや表現に対する理解も求められます。だからこそその結びつきを強めたのでしょう。書画会は文人たちの書を形成する重要な場でもあったようです。(田村彩華)

     

    【掲載作品】成田山書道美術館蔵
    ※1「条旗」富岡鉄斎 大正13年 一竿 絹地墨書 56.1×40.1㎝
    ※2「茶褥」富岡鉄斎 大正13年 一枚 絹地淡地墨書 50.8×67.4㎝
    ※3「山紫水明処書画会合作」山中信天翁、宮原易安、田能村直入、板倉槐堂、江馬天江、村瀬雪峡 明治11年 一幅 紙本墨画墨書 136.3×66.2㎝