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  • 22、松井如流とそのコレクション

    22-1、松井如流「金石聲」

     

    松井如流(1900-1988)は、秋田に生まれ、大正12年に関東大震災に遭遇したのをきっかけに上京し、吉田苞竹に師事して本格的に書を学びました。戦後すぐに日展や毎日書道展が始まった時にはすでに書家として評価され、その後、日展文部大臣賞、日本芸術院賞などを受賞しています。また、昭和24年から刊行された『書品』の編集に携わり、その後の『書跡名品叢刊』の解説も手掛けています(如流の手元にあった拓本は『書跡名品叢刊』の底本になっているものも)。西川寧とともに戦後の中国書道に関する学術的な部分をリードした存在といっていいでしょう。さらに、歌人でもあり、橋田東聲に師事して短歌誌「覇王樹」を主宰し、自詠歌を作品にすることもありました。

     


    「金石聲」昭和39年日展

     

     

     

     

    懐が広く、包み込むようなおおらかな筆運びのこの作は、漢隷が背景にあるのでしょう。「開通褒斜道刻石」などの漢碑を連想させます。

     

     


    拓本「開通褒斜道刻石」 松井如流旧蔵

     

    昭和33年に訪中日本書道団員として西安の碑林に訪れた如流は、「五鳳二年刻石」をみて「二つの年の字の縦画を長く引いたところ、また成の字の戈などの篆書風に書いているところなど、少しも気取っていない書き方をしているのはほほえましい。そしてなにか厚みを感じさせるこの風姿には、心の躍るのを覚えた」(『中国書道史隨想』1977年 二玄社)と述べているように、こうした古隷の素朴さに惹かれていたようです。

     

     


    拓本「五鳳二年刻石」 松井如流旧蔵

     

    如流は、木簡や六朝碑などにも早くから注目し、漢隷とアレンジを効かせ、温もりのある書を数多く発表しています。筆にはあそびがあり、本人のやわらかな雰囲気と重なり合うようです。

    昭和20、30年代、まだ隷書に注目して作品にする人は少なく、取り上げていても端正な「曹全碑」のような古典が好まれました。そのなかで、如流は整った八分隷ではなく、素朴な古隷を好み、おおらかな趣をもつ古典に集中して取り組んだのです。

    昭和30年代に入ると、少字数による大字書、造形的な表現も多く手掛けるようになり、現代空間を強く意識した作品も多く見受けられます。毎日書道展が昭和36年に「少字数書部」を設置すると手島右卿とともに積極的に推進しました。晩年は、脳梗塞を患い右手を不自由にしましたが、復帰後、「丹愚」(昭和62年日展)などの傑作を遺しています。

     

    当館では、御遺族の松井家や鈴木桐華先生からご寄贈いただいた作品64件と拓本100余件を収蔵しています。
    また、周辺の著作物などの資料類や書簡、葉書などもあります。

     

    書簡や葉書には西川寧、豊道春海、鈴木翠軒、熊谷恒子、上田桑鳩、川村驥山などの書家、歌人である土岐善麿などとの交流が確認できます。なかでも西川寧との『書品』に関するやり取りは頻繁に行われていたようです。

     

    今年は松井如流生誕120年の年になります。来年9月に「生誕120年 松井如流と蒐集の拓本」展を開催する予定です。作品のみならず旧蔵の拓本や関連資料も同時に公開しますので是非ご覧いただきたいと思います。(田村彩華)

     

    【掲載作品】成田山書道美術館蔵
    松井如流「金石聲」昭和39年(1964)日展 二曲半双 各140.4×69.3㎝ 松井洋子氏寄贈

  • 22、松井如流とそのコレクション

    22-3 松井如流旧蔵拓本について1

     

    当館には松井如流旧蔵の100余件の拓本が収蔵されています。後漢や北魏、唐時代のものを中心に、二玄社の「書跡名品叢刊」や教科書に掲載の底本を含むコレクションとなっています。資料そのものに一見の価値がありますが、ここでは如流の作品と併せ見ることによって彼の書業の奥深さに触れることができます。今回は、後漢時代の拓本を中心にその背景もご紹介します。

     

    松井如流の書学研究者としての原点は、吉田苞竹に師事し、大正13年発刊『碑帖大観』および昭和3年創刊『書壇』の編集に深く携わったことでした。昭和14年、『書論と書話』の一節は、自身のその後の方向性を示唆するようです。

     

    私はひそかに、隷書の真摯なる研究家が出づれはきっと天下に名を成すであろうと信じている。それは漢隷を習って漢隷の形体だけに終らず、完白、譲之を臨して奴書とならず、之謙、黒柳、冬心を学んで奇怪に陥らず、ほんとうに新風がひらけたものでなければならない。

     

    戦前のそういった気付きが、戦後いち早く示された作品もあります。

     

    左が「独酌」、右が「裴岑碑」 いずれも昭和25年

     

    戦後の如流の生き方を決定づけたのは昭和24年に『書品』を西川寧と共同編集することになったことでした。この雑誌は現代書学の最前線といえるものです。

     

    如流旧蔵の主要な拓本については、二度の訪中時に多く手に入れたといいます。昭和33年に日本書道団として赴いたころには、「開通褒斜道刻石」(22-1でご紹介)や「石門頌」などを有り金をはたいて入手したそうです。目を皿のようにして故宮博物院を見学したようで、その感動は昭和33年、「韋応物 石鼓歌」の落款にも確認されます。古隷から八分隷へという過渡期的な表現は、如流の書作に大きな影響をもたらしました。その頃の作品は話題となり、如流の研究と制作との連なりに多くの関心が集まったわけです。

     

    二種の「石門頌」

     

    「大吉」 昭和34年 第一回東京書道会展出品作

     

    20世紀、甲骨文字が発見されて以降、金文や木簡などの多数の資料が発掘紹介され、それまで法帖が中心だった書における古典の世界は、新しい広がりをみせていました。加えて書展の発展にともなう作品形態の変化が共鳴して、多様な背景を持った現代作品が生まれていきます。如流の表現は、書学研究の勢いの趣くところに、自然と向かっていきます。

     

    「権銘」 隷書の萌芽を秦拓にも見出しました

     

    「祀三公山碑」

     

    「崇山太室少室石闕銘」

     

    「北海景相君碑」

     

    また、昭和55年の東方書道院の講演会では、「章草なり行書化したものに興味がある」と語っています。木簡に八分が生まれ、隷書が崩れて草隷となり、さらに草書に波法が残るような章草となり、草書が生まれると如流は考えています。20世紀の新出資料を見ることはなかった顧藹吉や翁方綱、包世臣、楊守敬の八分論をふまえながら、如流の論は展開します。如流は漢代の書は八分への動きのみならず、常に草書へ赴く勢いがあったと分析しています。昭和31年刊行の「定本書道全集」(名著普及会)において如流は漢代の書の解説を担当しますが、説文解字の序「漢興って草書あり」は虚言ではなかったと、その書体の完成にいたるまでをつぶさに追い求めています。

     

    「多くの書家達は漢の書といえば、碑碣文字にのみに心をそそぎ、漢器の金文、漆器や瓦塼の文字、漢印の風にともすれば無関心であるが、漢の書を研究するとすれば、これらのもの並に木簡の書と併せて、攻究するところがなければならぬ。」

     

    漢代に完成をみる八分の美は、当時の権威者や貴族に付随したろう書で、様式化した美であり、そういった書は権威を正せば正すほど個性に乏しくなる惧れがあるとします。典型的な八分により隷法の根底を養った上で、野性味が強い、どことなく庶民的な香りを発散するようなものを取り入れて行ってこそ、隷書として今日に生きる書が生まれるというのです。自ら蒐集した拓本を手許に、そうした追究はなされていくのです。

    「開通褒斜道石刻」は前漢の古隷に近く大らかな風姿で、後世の人の及ばない素朴な精神があるとし、

    「石門頌」では文字がさらに整っていき、かつ自然体でこころよい響をあげていているとします。

    「楊淮表紀」においてはその土地その時代に想いを馳せ、大きな自然の懐にあって生まれた「無技巧」な素朴さを評価します。そこに新しい芸術の萌芽を見出すことになるのではないかとも述べています。

    如流のコレクションには、整斉な八分隷の他「西狭頌」「魯峻碑」「校官之碑」などのような古朴な隷書の拓本が多いことも特徴です。

     

    「楊淮表紀」

     

    二種の「西狭頌」

     

    「魯峻碑」

     

    また、如流が傾倒した「開通褒斜道刻石」「石門頌」「封龍山頌」「西峡頌」などについては、二種ずつ拓本を求めています。如流は先のテーマでご紹介した田近憲三とも親交があり、書跡名品叢刊(二玄社)の底本となった田近本の「曹全碑」(当館蔵)では、如流がその解説を担当しています。同じ時代に拓本蒐集に熱中した二人のコレクションが当館にもたらされたのも何かの縁でしょう。

     

    如流はやがて書家として「金石聲」や「日新」、「心事數莖白髪 生涯一片青山」などの作品を生みだすわけですが、それに至るまでのこうした経緯を想うと、このコレクションを扱うわたくし共はとても感慨深い気持ちになります。(谷本真里)

     

     

    「心事數莖白髪 生涯一片青山」 昭和36年 第五回東方書道院展出品作

     

    【掲載収蔵作品】
    作品:「裴岑碑」一幅 昭和25年 紙本墨書、「独酌」一幅 昭和25年 紙本墨書、「大吉」一面 昭和34年 第一回東京書道藍会展、「心事數莖白髪 生涯一片青山」 六曲半双屏風 昭和36年 第五回東方書道院展
    拓本:「石門頌」「陶量銘」「祀三公山碑」「崇山太室少室石闕銘」「北海景相君銘碑」「楊淮表紀」「西狭頌」「魯峻碑」

  • 22、松井如流とそのコレクション

    22-2 松井如流 上善若水~じょうぜんみずのごとし~

     

    吉田苞竹の流麗な草書に惹かれて門下となった如流は、その才を買われ、苞竹らと関東大震災直後の混乱の中、書道史を俯瞰する書物を刊行すべく『碑帖大観』全50集の編纂に奮闘しました。困難に真正面から向き合い、克服していくという生き様は生まれ持っての資質だったのでしょう。戦前の第2回東方展では『臨張遷碑』を出品し、篆刻の大家河井荃廬に漢隷の資質を評価されるなど、後年の松井如流の書の特徴はすでに見え始めていたようです。

    ※1

     

    五言絶句を二行にしたためた隷書の作ですが、字間を一定に保ちつつ、文字の縦幅のバランスに工夫が凝らされ、単調な表現にならないよう練られた配字になっています。また木簡調と思われる風も多分に含まれて、穏やかなイメージを与える如流の風がよく表れています。

     

    戦後、西川寧を主幹として刊行された『書品』の編集も含め、研究者でもあった如流は著述も多く、書への明確な考え方を知る手がかりは多い作家だといえるでしょう。

     

    ※2

     

    「上善若水」…老子の思想だとされていますが、意訳すれば一番良いものは無味で嫌らしさを感じないものだという意になるでしょうか。

     

    如流の追い求めた書とは、書の表現、文字の意、作家の意これが全て結集したものであると考えていたようです。老子の思想はあるがままの姿を受け入れ、理解し、受容していくことが根底にあると考えますので、如流の思想が感じられる一点だと思います。

     

    さらに、如流の生き様を感じさせる一点として、こちらの作品をご紹介します。

     

    ※3

     

    歌人でもあった如流が自詠の歌を書いています。この作品は、晩年脳血栓に見舞われ、利き腕の自由を失った如流が長期間のリハビリを経て、再び筆を執り、開かれた個展で発表された一点です。左書を勧められたともいいますが、あえて右腕で書かれた一作は、力強い表現となりまさに三位一体の玉作となっています。代表作の一点、『丹愚』もまた闘病後の一作であったことも如流の人となりを感じさせます。

    現実を受け止め、出来うる限りの人事を尽くす。如流の胆力を改めて心に留めます。(山﨑亮)

     

    【掲載収蔵作品】

    ※1、松井如流 五言絶句 1幅 紙本墨書 134.1cm×32.8cm 青山杉雨氏寄贈

    ※2、松井如流 上善若水 2曲半双屏風 紙本墨書 139.5cm×69.4cm×2 松井洋子氏寄贈

    ※3、松井如流 自詠歌「どんぐりの実」 1面 紙本墨書 53.0cm×75.0cm  昭和57年松井如流新春書展出品作 松井洋子氏 鈴木響泉氏寄贈

  • 22、松井如流とそのコレクション

    22-4 松井如流旧蔵拓本について2

     

    「鄭羲下碑」 頌字未損本 ※書跡名品叢刊(二玄社)底本

     

    「論経書詩」

     

    天なるや雲峯山の崖ごとに文字ほりしとふ鄭道昭のとも

    今もなほ雲峯山にほりし文字定かならむをゆきて見難し

    良き崖を見つけ見つけて字をほりつ楽しましけむ古へ人は

    己れ書きおのれほりたる崖の文字朝夕みつつありけむ人ども

     

    これらは吉田苞竹刊行『碑帖大観』の歌壇に載った如流の歌です。雲峯山に刻まれた鄭道昭の書を題材にしています。如流は橋田東聲に歌を師事し、歌人としても活躍しました。先にご紹介したように、如流にとって歌と書は表裏一体で、それぞれが支えとなり人生をまっとうしたように見えます。

    如流の書に取り組む心持ちは、歌からも捉えることができます。愛玩の拓本の名を詠みこんだ歌もあります。

     

    「顔氏家廟碑」


    顔真卿の書丹の碑いくつ見つづけて逞しき筆の跡に気おさる

     

    「集字聖教序」(鳴鶴題簽)

     

    室内のうすき光に七仏をわれは見すかす集字聖教序碑   ※『近代中国の書』中国詠草より

     

    鄭道昭への傾倒ぶりは、如流自身が担当した『書品』59号の特集「鄭道昭・観海童詩」や、『中国書道史随想』の「鄭道昭雑感」にもよく表れています。『書壇』や『書の友』などの各書道誌には、原拓を掲げ、臨書指針などをたくさん寄稿し、書家らしい実体験に裏打ちされた古典の捉え方を述べています。行草書の典型を王羲之が造り、楷書が羲之歿後に完成したという見解をとりながら、特に北魏時代に壮観を極めた碑刻に魅せられたようで、蒐集の拓本にも「鄭羲下碑」をはじめその時代の優品がそろっています。

     

    「張猛龍碑」

     

    「高貞碑」

     

    「曹望憘造像記」

    「曹望憘造像記」は戦前に模刻本二種を買い求め、訪中時に原石の拓本を入手したようです

     

    如流は『書品』(13号)では真蹟の存在しない王羲之の搨模本について特集したり、「秦の時代の篆書の定型化(小篆)、漢の時代の八分の定型化(隷書)につぐもの」として唐の楷書を据えるなど、書体の変遷を独自の視点からまとめ、学書の対象としてもその視野を広げました。最も関心の高い磨崖碑ではどうしても補いきれない筆意を、唐代の拓本に求めたようにも見えます。

     

    「雁塔聖教序」

     

    餘清齋帖「十七帖」

     

    このテーマを通して、如流の書業を振り返ると、書家であるとともに書道史研究者として大きな足跡を残していることに改めて気付かされます。ご紹介した如流の作品や拓本はほんの一部です。来年開催する「生誕120周年 松井如流展」において当館が所蔵するコレクションの全貌を明らかにする予定ですので、ぜひご注目いただければと思います。(谷本真里)

     

    【掲載収蔵拓本】
    「鄭羲下碑」、「論経書詩」、「顏氏家廟碑」、「集字聖教序」(鳴鶴題簽)、「張猛龍碑」、「高貞碑」、「曹望憘造像記」、「雁塔聖教序」、 餘清齋帖「十七帖」