2、西川春洞と西川寧

2-2 西川春洞の柔と剛

西川春洞(1847‐1915)は、押しも押されもせぬ日本近代書道史の大家のひとりです。
子息の西川寧や豊道春海などを輩出し、近代的な展覧会組織を目指した春洞。
彼は明治・大正・昭和・平成にわたって書壇に大きな影響をもたらしました。

今回もそんな春洞の作品のご紹介です。

 

 

この作品は春洞が60歳の時(明治39年)、明の沈周(しんしゅう)の「安居歌」を書いたものです。

徐三庚(じょさんこう)や張遷碑などの学習の跡が垣間見られ、徐三庚のもとで学んだ秋山碧城(あきやま へきじょう1864‐1954)を通じて受け入れた清朝の書法がすっかり手に馴染んでいることがわかります。

中国発祥の隷書(書体のひとつ)は、今日では展覧会などで盛んに用いられています。
しかし、幕末明治初期、春洞の青年期に日本で隷書を得意とする人物はそう多くなく、書法的には未開拓の書体でした。
後漢の曹全碑を下敷きにした巻菱湖(まき りょうこ1777‐1843)らの軽快な隷書が主流だったのです。

 

 

春洞は渋い線で周到に準備した隷書を得意としました。春洞の看板、硬派な面と言ってもいいでしょう。
こうした重厚感のある隷書は、新しい時代の嗜好に合致して広く受け入れられるところとなりました。
この屏風は春洞の隷書作品の代表作のひとつです。書道研究誌では隷書の手本として紹介されています。

 

明治20年代に執拗に追究した様子が伝わってくる資料
(『西川春洞展1980』より)

 

こうして春洞の究める姿勢は、子息の西川寧に引き継がれていくのですね!

また、このような作品もあります。

…春洞の書いたもの?

この作品は二人による合作です。
春洞と交流があった日本画家の山岡米華 (やまおか べいか1867-1914)の手になるものです。

となると、書は春洞で画は米華なのかなと思いますよね。
ところが賛を見てみると…

如缾先生酔 写竹

読書窓下聴膠々 七賢縹格今何在  米華後学題

先生(春洞)が酔っぱらって竹を写したこと、
そして米華はその竹画にあわせた七言二句を詠んで、書き連ねたことが伝わってきます。
ふたりが膝を交えて酒を酌み交わし、竹林の七賢よろしく文雅の話に花が咲いたのでしょう。

春洞は江戸の生まれで、多分に粋で鯔背な江戸っ子気質を持っていたように想像されます。
酒に乗じてサッと筆を執り、当意即妙に書画をしたため、その場を一層華やかにしたのでしょう。
こうした柔らかな側面も春洞の魅力です。

もう一点春洞の画賛を。

 


 

 

 

たのしみは 夕顔たなの下涼み とゝをはてゝら めは二布して

如缾人酔戯

 

久隅守景(くすみ もりかげ)の国宝「夕顔棚納涼図屏風」を連想させるこちらからは、暑い夏の過ごし方が伝わってくるようです。

現在では、絵画・書・詩文などは別々の分野で扱い、評価されるのが一般的ですが、春洞の時代の文人はそういった垣根を設けずに互いの世界を自由に往還しています。

 

西川春洞の硬派な篆隷も、軽やかな書画もそれぞれに素敵です。(谷本真里)

 

【ご紹介した作品】すべて成田山書道美術館蔵

「沈石田安居歌」 西川 春洞  明治39(1906)年制作 青山慶示氏寄贈
「墨竹図賛」 西川 春洞 画 山岡 米華 賛 谷村憙齋氏寄贈
「糸瓜図讃」 西川 春洞 青山杉雨氏寄贈