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  • 2、西川春洞と西川寧

    2-1 西川春洞「臨周舊輔甑銘」

    明治書壇の雄、西川春洞は幕末の江戸に生まれ、生涯を東京で過ごしました。日本人が革命的影響を受けた明治維新を目の当たりとした生い立ちは、春洞の書業にも大きな影響を与えました。

    当時江戸では巻菱湖をはじめとする平明で端正な書風が盛行していました。春洞も菱湖門下の中澤雪城につき、菱湖風の書を学びますが、時代は新たなる書を求めていました。大陸に渡って、直に本場の書を学んだり、来日清国人から情報を入手した次代の担い手からは新時代にふさわしい、生命力のある強い書を好む風潮が生まれました。春洞もまた渡清こそしなかったものの、大陸帰りの秋山白巌から徐三庚の書を学ぶ機会を得、これを双鉤して篆隷への関心を深めます。写真は明治27年に周代の生活用具に刻された銘文を臨書した作で、春洞の古典への傾倒ぶりがうかがえます。さらに明治33年には常滑に滞在し、自ら使用する生活用具の作成にいそしみます。明清文人の愛玩した道具を自らも使用することで、単に中国の大家の痕跡を追い求めるだけではなく、同じ境地を目指そうという探究心にこそ彼の真骨頂が感じられます。時代は変わり、やがて書の評価は作品の練度が問われる展覧会時代に移行します。西川春洞は時代のまさに先駆けであったといえるのではないでしょうか。(山﨑亮)

              

    「臨周舊輔甑銘」西川春洞 明治27年 紙本墨書 軸 成田山書道美術館蔵

  • 2、西川春洞と西川寧

    2-2 西川春洞の柔と剛

    西川春洞(1847‐1915)は、押しも押されもせぬ日本近代書道史の大家のひとりです。
    子息の西川寧や豊道春海などを輩出し、近代的な展覧会組織を目指した春洞。
    彼は明治・大正・昭和・平成にわたって書壇に大きな影響をもたらしました。

    今回もそんな春洞の作品のご紹介です。

     

     

    この作品は春洞が60歳の時(明治39年)、明の沈周(しんしゅう)の「安居歌」を書いたものです。

    徐三庚(じょさんこう)や張遷碑などの学習の跡が垣間見られ、徐三庚のもとで学んだ秋山碧城(あきやま へきじょう1864‐1954)を通じて受け入れた清朝の書法がすっかり手に馴染んでいることがわかります。

    中国発祥の隷書(書体のひとつ)は、今日では展覧会などで盛んに用いられています。
    しかし、幕末明治初期、春洞の青年期に日本で隷書を得意とする人物はそう多くなく、書法的には未開拓の書体でした。
    後漢の曹全碑を下敷きにした巻菱湖(まき りょうこ1777‐1843)らの軽快な隷書が主流だったのです。

     

     

    春洞は渋い線で周到に準備した隷書を得意としました。春洞の看板、硬派な面と言ってもいいでしょう。
    こうした重厚感のある隷書は、新しい時代の嗜好に合致して広く受け入れられるところとなりました。
    この屏風は春洞の隷書作品の代表作のひとつです。書道研究誌では隷書の手本として紹介されています。

     

    明治20年代に執拗に追究した様子が伝わってくる資料
    (『西川春洞展1980』より)

     

    こうして春洞の究める姿勢は、子息の西川寧に引き継がれていくのですね!

    また、このような作品もあります。

    …春洞の書いたもの?

    この作品は二人による合作です。
    春洞と交流があった日本画家の山岡米華 (やまおか べいか1867-1914)の手になるものです。

    となると、書は春洞で画は米華なのかなと思いますよね。
    ところが賛を見てみると…

    如缾先生酔 写竹

    読書窓下聴膠々 七賢縹格今何在  米華後学題

    先生(春洞)が酔っぱらって竹を写したこと、
    そして米華はその竹画にあわせた七言二句を詠んで、書き連ねたことが伝わってきます。
    ふたりが膝を交えて酒を酌み交わし、竹林の七賢よろしく文雅の話に花が咲いたのでしょう。

    春洞は江戸の生まれで、多分に粋で鯔背な江戸っ子気質を持っていたように想像されます。
    酒に乗じてサッと筆を執り、当意即妙に書画をしたため、その場を一層華やかにしたのでしょう。
    こうした柔らかな側面も春洞の魅力です。

    もう一点春洞の画賛を。

     


     

     

     

    たのしみは 夕顔たなの下涼み とゝをはてゝら めは二布して

    如缾人酔戯

     

    久隅守景(くすみ もりかげ)の国宝「夕顔棚納涼図屏風」を連想させるこちらからは、暑い夏の過ごし方が伝わってくるようです。

    現在では、絵画・書・詩文などは別々の分野で扱い、評価されるのが一般的ですが、春洞の時代の文人はそういった垣根を設けずに互いの世界を自由に往還しています。

     

    西川春洞の硬派な篆隷も、軽やかな書画もそれぞれに素敵です。(谷本真里)

     

    【ご紹介した作品】すべて成田山書道美術館蔵

    「沈石田安居歌」 西川 春洞  明治39(1906)年制作 青山慶示氏寄贈
    「墨竹図賛」 西川 春洞 画 山岡 米華 賛 谷村憙齋氏寄贈
    「糸瓜図讃」 西川 春洞 青山杉雨氏寄贈

  • 2、西川春洞と西川寧

    2-3、西川寧

     

    今回は西川寧(1902-1989)を取り上げます。
    前回紹介した西川春洞の門弟には諸井春畦(1866-1919)、武田霞洞(1865-1935)、豊道春海(1878-1970)などの逸材が多く出ました。
    なかでも搨を重ね、緻密な作業から文字を学ぶ春洞の性質を受け継いでいるのが子息の西川寧でしょう。
    金文や石刻文字などから実証性の高いものに源流を求めました。

     

    幼少期から春洞の真似をして石印に文字を刻したり、筆を持って遊んだりして書に親しんだ寧は、篆書に早くから興味を抱き、5歳にして「寿」の文字をお皿に書き、6歳で「仁者寿」の印も刻しています。
    本人はこれが篆書との最初のなじみであり、縁結びであると回想しています。(『西川寧著作集』第五巻『書道講座』第五巻、1956年2月)

     

    中学2年生で父を亡くしてからは春洞の遺した資料をもとに学び、慶応義塾大学に進学して中国美術史を学んだのちに東京教育大学で教授を務めました。
    寧の作品の背景には、何度も中国を訪れて励み勤しんだ文字学や書法の研究があります。

    これは昭和30年(1955)寧53歳の時の作品です。


    ※1

    『詩経』小雅に出てくる天保九如のひとつで、長寿福録を祝う言葉を書いています。
    「今までのような、篆書の定型に従ったものではなくて、無理にもそこから逃げ出してみよう」と本人が言うように、「静」的な篆書に動きを加えた「動」の表現を求めました。
    このころから積極的に篆書の作品に取り組んでいます。

     

    もう1点は権量銘を臨書した作で、落款から昭和18(1943)年に揮毫されたことがわかります。
    40歳ころの比較的若い作品です。
    独自の主観を抑えて丁寧に取り組んでいるように感じます。

     

      
    ※2

    この一幅を所持していた青山杉雨の箱書きがあります。

     

    西川寧は戦後の書壇を牽引した存在として知られていますが、書と書学の両面の領域において成果を遺した人物でもあります。
    『書跡名品叢刊』『書道講座』『書品』などの編集、解説を手掛け、書を学ぶ方法を見本として示しました。

     

    青山杉雨、浅見筧洞、小林斗盦、牛窪梧十、関吾心、新井光風など現代書壇で活躍する作家を数多く輩出し、現在もその精神が受け継がれています。(田村彩華)

     

    【掲載作品】どちらも成田山書道美術館蔵
    ※1「南山之寿」 西川寧 昭和30年 紙本墨書 額 70.0×113.5㎝ 西嶋慎一氏寄贈
    ※2「臨秦権量銘」 西川寧 昭和18年 紙本墨書 軸 140.5×25.6㎝ 青山杉雨氏寄贈