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  • 10、書のことば、書のかたち

    10-1、書のことば、書のかたち
    田村空谷「読まないでください」

     

    「書は心画なり」という中国前漢の揚雄のことばは、肉筆には私たち一人ひとりの心情がこもっていることを伝えます。そのことばには「言は心声なり」という前置きがあります。「言」は心の声、「書」は心の画として、ともに「こころ」を他者に伝えるものです。

    戦後、書への向き合い方やその在り様は変容するところとなりました。すると、書壇やその枠組みを超えて、作家たちは書に内在する美の在処をそれぞれの観点から確認する作業を始めました。

    「ことば」の選定や「かたち」の追究には、書き手の「こころ」が露出します。活字ではなく肉筆だからこそ伝わり得る「こころ」が書作品となるのです。

     

     

    この作品は、田村空谷によることばと表現の関係性を問いかける作品です。活字を押し、最後に句点のみを毛筆で表します。鑑賞者に、「読まないでください」を読ませることに最大のメッセージ性があり、その意外な表現は観る者を引きこみます。また、ことばを活字で表現し、ふだんは書き表すことのない句点を毛筆で書いており、ことばのトリックを応用したその逆説的な表現方法もユニークです。この作品において、どこまでを書表現として認めるのかという疑問が湧くのが率直なところですが、それは自論をもって書作品とします(空谷いわく、「書く」「刻む」「写す」「鋳る」「押す」「拓する」ことが書の主ないとなみであり、「活字を押す」ことは書表現の範疇としています)。

     

    空谷は、この作品によって「書」の在り様や捉え方を訴えかけるようです。現代の書が「芸術」として成立するなかで、可読性の問題はしばしば議論の的となります。

    例えば空谷の師、宇野雪村は、昭和39年頃からローマ字による題名を盛んに使用しています。その目的はことばによる連想をさえぎることでした。例えば仏教思想的な「くう」を表現した時、タイトルに「空」とつければ、多くの人は「そら」と読み、青い空や曇り空を思い浮かべ、それは誤読となってしまいます。タイトルにおいてことばと距離を置くことで、造形として純粋に見てほしいという願いが込められているのです(「宇野雪村の美」空谷解説部分より)

     

    空谷は「音楽も音だけによるものと言葉を付けるものとがある。書も言葉を読んで成立する書と言葉のいらない書がある。」とします。「ことば」や「かたち」の掛け合わせ方、あるいは距離の取り方によって、「こころ」をかたちにするいとなみは、作家の思想によって無限に展開する可能性を秘めているようです。(谷本真里)

     

    【ご紹介した作品】
    「読まないでください。」昭和49年 奎星展 一面 166.0×137.0

  • 10、書のことば、書のかたち

    10-2、書のことば、書のかたち 

    徳野大空「草原」

     

     

    書は、「ことば」と「かたち」の掛け合わせ方、そして距離の取り方によって、表現に奥行きが生まれます。この作品は「草原」というタイトルと併せ見ると、一見「かたち」に寄るようですが、「艸」字を素材にすることで「ことば」を掛け合わせた、書表現による作品です。

    作品の構成は、数多の「艸」の字です。作者は「艸」の字を五万字くらい書こうという心づもりで制作にあたりましたが、その正確な数はいまだ不明です(数えたことがありません)。仕上げるのに4日間を費やしたといいます。中台青陵は、「隅々まで鋭い書の線で描かれてある」といい、その線質を評価します。細部に目を凝らすと、「針切」を思わせる潤筆と渇筆による繊細な線を織り交ぜた「艸」が空間に奥行きをもたらし、まるで遠方で草がたなびくかのようです。にじみや「艸」の大小もおりまぜながら、墨一色で絵画的に「草原」を描きます。そこには光が宿り、時間の流れを感じさせる世界が広がります。説明がなくても、見る者に理想郷を連想させます。

     

    作者である徳野大空は、昭和27年に独立書道会(現独立書人団)創設と同時に副理事長に就任し、師である手島右卿と現代書の在り方を模索しました。昭和41年には東京タイムズ紙面において書道展を主宰し、自身も昭和42年に玄潮会を興しました。

    「ことば」を素材にしながら、「かたち」から迫ることを重要として「こころ」の表現を試みようとしたと思われる初期の作品としては、昭和26年「雷紋」や昭和29年「流洲」などがあります。手島右卿がサンパウロ・ビエンナーレに「崩壊」を出品し、その意味するところが漢字圏外の人びとにも伝わったことで話題を呼んだのは昭和32年。こうした「かたち」への追究は、大空の思想に大きく影響したことでしょう。

    実際、昭和30年代には、古代文字や仮名、漢字を素材に、淡墨を中心とした小字数の作品を手掛けています。その流れのなかで、昭和38年に「草原」は生まれます。これが作品に結実したのには、伏線があります。そこからさかのぼること約13年、草字の古文を書いた「芽生え」を『墨美』に発表したところ、獅子文六の目にとまり、文芸春秋社刊行本の表紙に起用されました。その頃から「草原」は構想されていたのです。

     

    「草原」は、大空が「過去40年間に亘って見てきたあらゆる草原を理想化した私の心の中の草原である」といいます。それは、この時代の作家たちが書における「ことば」と「かたち」への意識を先鋭化させたことによって意図的に成立させた現代の書の側面を物語ります。また、この作品は「艸」という象形文字を、再びもとの原始的な表現に還すことで、「ことば」の「かたち」に着目しています。こうした作品は、様々に実験的な表現が試された1960年代だからこそ、発表し得たのでしょう。「草原」は、近現代の日本書道史を象徴しています。(谷本真里)

     

    【ご紹介した作品】
    「草原」昭和38年 独立書展 二曲半双 69.5×138.0

  • 10、書のことば、書のかたち

    103、書のことば、書のかたち

    千代倉桜舟 「春殖」

     

    桜舟は戦前、伊藤芳雲に仮名を、山口蘭溪に鳴鶴系の漢字を学びました。太平洋戦争後、4年間に亘るシベリア抑留生活を経て帰国。その過酷な体験や胸に刻まれた砂漠の情景は、やがて書作の大きな糧となりました。また、復員後は大澤雅休に出会い、率直に個の内面を表出しようとするその思想に感銘を受けます。戦前は古筆に倣った王朝的な仮名に傾倒していた桜舟でしたが、戦後はその世界に戻る気にならなかったといいます。

    昭和24年の書道芸術院展の出品作は、戦後のすっかり変わった世相、廃墟と復興の混在を目の当たりにしてとまどう思いを自身の「ことば」で表現しました。漢字・仮名・片仮名・アルファベットを書いた作品「GO STOP(ヘリオトロープの花は…)」です。

    桜舟は書壇に属しながら、後半生は大規模な個展をたびたび開いて、左横書きの形式や仮名の小作品、濃墨大字の平仮名で大きな壁面を埋め尽くす超大作などを発表しました。親交の深い宗左近や自詠の「ことば」を積極的に選んでいます。また、世界の大自然や遺跡を周り、「ことば」や「かたち」にして発表しています。

     

     

     

     

    これは平成元年に発表した「春殖」、左右が18メートル(本紙)にもなる巨大な作品です。黄河上流の景観を目の当たりにし、その黄河の渦からこの作品の「かたち」が生まれました。「動と勢と渦の調和美の線表現」に草野心平の詩を重ねる手法を思いついた桜舟は、ひたすら「る」を書き連ねます。

    心平の二十四字の「る」は、蛙の鳴き声であるとともに、春のうららかな気候に蛙の卵が連なる「かたち」でもあるようです。しかし、桜舟のこの作品では、心平のメッセージと、その世界とは無縁な黄河の渦による「かたち」を融合させています。作品には、そよぐ風のような軽い筆致に筆ののどもとまでつぶして引くような荒々しい筆致、淡墨と濃墨、繊細な遊印に量感に富んだ落款印など対照的な表現技法が混在しています。

    桜舟は書を「目で捕えたものを頭で整理して、それを如何に運動神経で表現していくか」と語ります。墨を含ませた筆を抱えた桜舟は、大きな紙面に野球のスライディングのように体当たりしていたといいます。大自然、特にどこまでも広がる砂漠の光景に心を奪われた桜舟のスケールの大きさが、如実に表れた作品です。

     

    「春殖」は、もとの「ことば」の意図とは離れ、その「かたち」を借りて独特の世界観を演出しているところがおもしろい作品です。平成を迎えて制作されたこの大作は、それまでの東洋的、文人的な書の在り方とはかなり異なったところに位置しているようです。(谷本真里)

     

    【ご紹介した作品】
    「春殖」個展 八曲一双 200×1800

  • 10、書のことば、書のかたち

    10-4、書のことば、書のかたち

    中島邑水「丘」

     

    邑水は昭和8年に26歳で文検に合格し、書道教師として高崎市立女子高等学校で働いていました。ある時比田井天来の講習を受けました。日頃、形式的な書に疑問を抱いていた邑水はその想いをぶつけるためにさっそく書学院の門をたたきます。しかしその時天来は留守で、対応したのは同郷の大澤雅休でした。前衛的な書へ向かう気持ちはもともとありませんでしたが、昭和10年、雅休に師事し、天来の益を受けることになります。

    「私は古典にしっかりと足を踏まえて現代の息吹の中から生まれ出る新しい書を念じ続けている」とは初期のことばで、雅休門下で最も古典を学んだのは邑水だろうと、田宮文平は伝えています。邑水は、平原社を支え、昭和43年には「新たなものを生み成す」(『詩経』より)、生成社を興します。

     

     

    この作品は晩年の作品「丘(きゅう)」です。一見すると、何を書いたのかわかりません。タイトルに目を向けると、どうやら「丘」という字を書いているらしいことがわかります。なんとなく丘の字にもみえるようですが、見る者は丘の字と定かに判定することはできない、抽象的な造形です。

    邑水は、アテネの神殿の丘に立ち、高く聳える連山を目の当たりにしたときの印象を長らく胸に秘めていました。そこで洋の東西を問わない「古代のひとびとが神につかえまつる厳粛な姿」を想い、この作品を制作したのです。昭和52年の個展の作品集では巻頭を飾っています。

    この時の「めぐり逢い」には、「雅休先生の一貫した指導理念が、自覚ある書活動を生み、現在は、更に発展して甲骨文の直線の厳しさ、簡潔な、清く、雑物を叙去した純粋な表現活動を展開しようとしている」とあります。書くことが崇高ないとなみであった時代の文字を基に、原始的な文字の骨格を遺しながら独自の動きを加えた作品を一貫して生み出し続けました。

     

    邑水は文字を大切にしています。「現代に通用される文字を選んで、その文字に、自由に筆意を加えた」とする邑水は、「如何なる大作にしても通用する力を備えているいのではないか」という自らの考えを実証すべく、そこに現代書としての活路を見出そうとしたのでしょう。

    また、邑水は線に哲学的思考を求めました。法悦状態で現れた線によって生み出される作品にこそ人格が表れるとし、そこに「心声」(10-1より)を求めたように見えます。「ことば」は文字を借りて表現される「心声」です。この作品は、書表現における前提を示すものがあります。

    こうして「ことば」と「かたち」に注目し、その関係を探ると、現代書ひいては書といういとなみの根源がみえてくるようです。(谷本真里)

     

    言は心の声なり。書は心の画なり。(揚雄)

     

    【ご紹介した作品】
    「丘」昭和50年毎日書道展 一面 89.8×53.5

     

  • 10、書のことば、書のかたち

    10-5、書のことば、書のかたち

    弔辞草稿 梅原 龍三郎

     

     

    「ふーさん」という大きな書き出しは、まさに呼びかけそのものです。奉書紙のような厚手の用紙を横半分に裁断して4枚半、訥々と思いを書き綴っています。

    これは洋画家として知られる梅原龍三郎(1888-1986)が、生涯にわたって交友のあった画商で美術評論家、福島繁太郎(1895-1960)のために作成した弔辞の草稿です。随所に訂正の痕がみられ、福島とのやり取りを回想しながらことばを選んでいた様子がわかります。さらに、事後、活字にされたものか、ペンや鉛筆、赤字による修正も加えられています。こうして旅立っていった親友に贈る最期のことばが紡がれていったのです。

    パリに長く住んだ福島が形成し、日本にもたらした「福島コレクション」にはルオーやピカソなどの名品が目白押しでした。とりわけルオーとは親しく交流しています。若手発掘の眼力も備えていた福島の存在は、日本の画壇に大きな影響をおよぼしました。

    パリに渡ってルオーの作品に衝撃を受けた梅原もまた、福島とそのコレクションに影響を受けた人物の一人です。太平洋戦争をはさんで35年にわたって続いた二人の交流が、日本の洋画壇に新たな潮流を生み出したのです。

    梅原は書にも関心が高く、大燈国師をはじめとする墨跡をコレクションしたことでも知られています。朴訥とした書風は、白樺派の武者小路実篤や志賀直哉、あるいは民藝運動の柳宗悦などを連想させるものです。パリから帰国した梅原の個展を開催したのは白樺社でしたので、自然にその風が身についたのかもしれません。

    梅原の福島に対する思いは、長文の一画一画に丁寧に込められているのでしょう。句読点ですらないがしろにしない書写態度からは、福島への敬意と親愛の情が垣間見られます。梅原のことばもさることながら、この書きぶりが二人のあいだにあった親密な交流を物語っているようです。(髙橋利郎)

     

    【ご紹介した作品】
    「弔辞草稿」昭和35年 各19.7×54.9 5枚