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  • 14、松本芳翠と辻本史邑

    今週は戦後書壇の確立期に第一線で活躍した実力派、松本芳翠と辻本史邑を特集します。

     

    14-1 松本芳翠 昭和を生きた古典派

     

    東京オリンピックの延期が決まり、空虚感にさいなまれている方もいらっしゃるのではないでしょうか。そのような皆様にご紹介したい作品が、五輪十絶「魔女」です。1964年の東京オリンピック開催時に、楷書、行書の名手として知られる書家の松本芳翠が感動の場面を十首の漢詩に賦し、そのうちの一首を揮毫したものです。東洋の魔女として大活躍をし、東京五輪でも金メダルに輝いた日本女子バレーボールの選手を七言絶句で称えた漢詩は、当時の熱狂を色あせることなく伝えています。

     

     

    呼成魔女不空言 連破強豪阻雪冤 敵陣豈無嘗膽計 偉哉撫子大和魂

    五輪十絶之一 芳翠

     

    1960年代の書は、壁面芸術としての隆盛を迎え、国内だけではなく、海外展の開催も相次ぎました。前衛的志向、造型的主張の強い作品が多く生まれる中で、古典派と目される芳翠はかつての先人たちのように自身の感興を自詠の詩で作品に仕上げたのです。扇面形式の作品は、行末になるに従い、寸が詰まるため配字に工夫が必要ですが、絶妙な改行と文字同士のバランスで、全く隙をみせていません。その完成度は、まるでどんなアタックでも回転レシーブで受け止めてしまう日本チームのフォーメーションのようにも見えるというのは言い過ぎでしょうか。

    前回の東京オリンピック開催による国際交流は、世界の脚光を東洋芸術へ向かわせることとなりました。この作もオリンピックのレガシーといえるのではないでしょうか。(山﨑亮)

    【掲載収蔵作品】

    松本芳翠 五輪十絶之一「魔女」 1面 紙本墨書 56.8×140.3㎝ 谷村雋堂氏寄贈

  • 14、松本芳翠と辻本史邑

    14-2 松本芳翠 「談玄観妙」

     

    漢字の各体に通じ、なかでも「楷書の芳翠」と評された松本芳翠。その芳翠の設立した書海社が来年100周年を迎えます。機関誌『書海』には、松本芳翠の手になる書が必ず手本として掲載され、その書法は今も脈々と受け継がれています。書団体の多くが現役の先生の手本をメインに掲げ、時代とともに書風が変化していきますが、同会は創立時から変わることなく芳翠の書法を中心軸に伝えています。その品格は、今日においても不変です。ここ成田山では、芳翠の跡を継いだ谷村憙齋先生、谷村雋堂先生が、長年にわたって書道の講師を務められていることから、その風を倣う僧侶が数多く存在します。当館では平成23年に書海社90周年の記念を兼ねた、松本芳翠墨華展を開催しました。

     

    松本芳翠は、明治26年、愛媛伯方島に生まれました。本名は英一。明治薬学校を出て家業を継ぐつもりでしたが、薬剤師の国家試験に受かるも未成年のために免許状が交付されませんでした。大成中学校4年に編入して勉学を続けていたところ、習字科の加藤芳雲に出会い、書と漢詩の手ほどきを受けます。やがて上京して近藤雪竹に師事し、日下部鳴鶴にも益をうけました。大正11年の平和記念東京博覧会で第一等賞金碑を受領し、日本郵船会社を辞して書家として立つところとなりました。

     

    芳翠は、前半生は長文の詩を書いた多字数作品が多いですが、晩年には昭和29年の「雄飛(大鵬一擧九萬里)」や今回ご紹介する「談玄観妙」のような少字数を大きな紙面に収めた作品もしばしば見られるようになります。

     

     

     

    「談玄観妙」は、昭和34年の日展に出品し、翌35年に日本芸術院賞を授賞した作品で、芳翠の書業を語る上でもっとも重要な作品の一つです。「談玄悟道言・観妙滅塵想」の五言二句を対聯様式に行書で書き、額装に収めます。それぞれの行頭に注目すると、「談」は偏と旁を寄せることで密に、「観」の「見」部分はぎゅっとすぼめ、偏と旁は離して疎にします。この「談」と「観」が並ぶことでバランスを保ちます。句のまとまりのみならず、このような対比構造を念頭に仕上げているようです。根底には王羲之から趙孟頫へと連なる帖学の正統な行草の筆意があります。

     

    ところで、芳翠の書道史研究として最も知られるのは、唐の孫過庭筆「書譜」の紙の折り目に節筆を発見したことでしょう。元祐本書譜が明代の坊刻本であることを指摘し、墨蹟本書譜が孫過庭の真跡であるという現在の定説を、昭和4年に『書海』で論じました。このことからも、あらゆる古典をつぶさに観察して分析的に捉え、真摯に向き合った姿が垣間見られます。芳翠は「眼識が停頓して進むことがなければ、単に腕達者といふだけで、到底佳書を作ることは出来ない」と言います。「談玄観妙」もこうした「眼識」と研ぎ澄まされた手腕から生み出されたのです。

     

    また、芳翠の澄んだ線は、特に用筆に関する信念から生じているようです。芳翠には、『楷書指針』など筆の性質とその使い方について詳しく論じた著述も目立ちます。それらのなかで、「弘法筆を選ばず」ということばは、空海はどんな筆でも相当に使いこなすという意味で、「能書の人ほど実は筆を選ぶものなのである」といいます。

    筆者は湯島聖堂で芳翠門下の松川玉堂先生に手ほどきを受けたことがあります。筆の形態と用筆法こそが芳翠流の要であることを体感しました。芳翠のキリッと筋の通った表現は、几帳面な分析と探究心に支えられているようです。理系頭ならではの「理系書(リケショ)」とでも表現したくなってしまいます。(谷本真里)

     

    【ご紹介した作品】
    「談玄観妙」昭和35年日本芸術院賞 紙本墨書 一面 各169.9×41.6

     

  • 14、松本芳翠と辻本史邑

    14-3、辻本史邑「白楽天詩」

     

    芳翠(1892-1971)と史邑(1895-1957)はどちらも近藤雪竹の門下で戦後の書壇をリードした存在として知られています。

    芳翠は伝統主義を尊重し、雪竹の風を基礎としながらも端正な唐時代の書や王羲之書法、また趙子昂を好んで学び、そこから生み出される品格高い書は多くの人に親しまれました。

    芳翠が関東で活躍したのに対し、史邑は関西で名をあげた人です。

    母校の奈良師範学校や奈良中学で教鞭を執り習字教育者として知られた史邑は、大正14年に寧楽書道会を創立すると書道研究誌『書鑑』を刊行し、学校教育の枠を超え、古典を重視した書の普及に力を注ぎました。戦後、書が日展に参加すると、漢字作家として関西からは唯一審査員に選ばれます。同時に、日本書芸院の会頭に就任して関西の書壇を牽引する立場として重要な役割を果たしました。今日の関西書壇隆盛の礎を築いた存在と言っていいでしょう。門下からは村上三島、広津雲仙、今井凌雪などその後の書壇を支える多くの人材を輩出しています。

     

    今回は辻本史邑の晩年の作を紹介します。

     


     

     

     

    これは昭和32年、最後の日展出品作と同時期に制作されたものです。この時、病に侵されていましたが作品からその様子は感じさせません。やや荒いタッチで、思うままに書き進めているようです。同じような構成で何枚も書き、押印までして最後までどの作品を出品するか悩んでいたのでしょう。結局この作は出品しなかったものですが、装丁まで施し大切に遺されていました。

     

    同じ額の中に、これとは別の草稿と思われる一作も遺っていました。

     

     

    日展出品作は村上三島記念館に収められています。


    『近代日本の書』芸術新聞社 より転載

     

    史邑は、鳴鶴や雪竹の風をもとに漢から唐時代の古典を中心に正統な書を学んでいましたが、山本竟山とともに昭和5年、7年と2度中国に渡り、碑法帖を蒐集すると同時に明清の書に強い関心を示しています。西洋風の天井の高い大空間に適応するためにはと、戦前から長条幅の研究をしていました。
    史邑の書風は幅広く多彩で、師風の書を基礎にしながらも、劉石庵や王鐸、何紹基、金農などの明清の書を取り入れ、晩年には富岡鉄斎、仙厓らの表現にも傾倒しました。
    この作品は、文人的な感覚が息づいた史邑の書の特徴がよく表れた一作です。(田村彩華)

     

    【掲載作品】成田山書道美術館蔵
    ※ 辻本史邑「白楽天詩」 昭和32年 紙本墨書 一面 68.6×67.2 辻本妙子氏寄贈

  • 14、松本芳翠と辻本史邑

    14-4、「書道ニ関スル建議書」

     

     

     

     

    日本書道作振会から始まり95名の署名を寄せたこの「建議書」
    尾上柴舟、中村不折などの名が確認できます。

    芳翠や史邑が活躍したこの時代、大正時代の終わりに東京府美術館が開館することになりました。東京府美術館ができるまでは日本には公立の美術館がなく、画家や工芸家、彫刻家などの美術家たちが運動をおこし、国に働きかけてつくったのがこの東京府美術館です。実業家である佐藤慶太郎の篤志によって実現しました。建設資金を東京府に寄付したのです。

    開館まで書の作品を展示する計画はありませんでしたが豊道春海(1878-1970)は、日本書道作振会の第一回展を上野の美術協会で開いたあと、第二回展は東京府美術館での開催を希望し申し立てました。しかし、日本画や洋画の美術団体からは、洋風の壁面で天井の高い美術館は書に合わないと反対されてしまいます。そこで豊道は、佐藤慶太郎を訪ねて(出資もとに行って)お願いをして賛同を得、その結果を携えていったことで府知事の賛意を得ることができます。その時に豊道はこうした建議書を作ったのです。

     

     

    建議書の冒頭には次のようにあります。

     

     

     

     

    豊道は、「書は六芸の一にして東洋独得の芸術たり。人あれば言語あり言語ある所必ず文字あり。是を美化したるものを書道と為す。書道は心の精華人格の表現なり…」と書き始め、書道は日本の伝統的な文化として大切であり、このような会場に書道の作品を展示することに大きな意義があると熱望しています。

    この他にも豊道は、日展の書の新設や小中学校における習字教育の復興のために尽力し、日中交流などにも力を注いでいます。様々な場において書道というものを位置づけようとしたのですね。

     

    建議書と一緒に名刺も遺っています。

     

    豊道春海本人のものと貴族院議員の戸澤正己、衆議院議員の関直彦の名刺です。

    戸澤氏の名刺には、自身の書道の師匠である豊道を紹介し、よろしくお願いしますと毛筆で書き込んでいます。

    また、関氏の名刺には「書道作振会建議の趣旨御採用被下度、先年平和博覧会の時御賛助致せし歴史も有之候。」と添えられています。大正11年に開催された平和記念東京博覧会では、「書及篆刻」として書道の部門が設けられ、そこに賛助していた歴史もあることから、今回の東京府美術館で書道展をすることも受け入れてほしいと伝えています。

    豊道はこうした方々の賛助を得て、建議書を持って東京府知事である平塚廣義に会いに行ったのです。この建議書は実際に東京府知事の手に渡った原本と思われます。

     

    こうして豊道の努力が実を結び、晴れて第二回日本書道作振展が東京府美術館で開催されます。それから東京府美術館(現東京都美術館)で書道展ができるようになりました。その後、日展や毎日書道展、読売書法展などの様々な書道展ができた時も東京府美術館が会場になります。

    東京府美術館は西洋的な建築で、その空間に展示される書道の作品が現在の私たちにとっては当たり前のように感じます。しかし、このような会場でなければ額などの大作は生まれなかったかもしれません。作品は会場に影響されるところがあるのだと思います。

    この建議書は、書道が展覧会主義になっていく転機となったものではないでしょうか。(田村彩華)

     

    【掲載資料】成田山書道美術館蔵
    「書道ニ関スル建議書」大正15年 東京府知事平塚廣義あて