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  • 25、尾上柴舟、田中親美、鈴木梅渓

    25-1、尾上柴舟「はとば」

     

    歌人や国文学者、さらに古筆や平安文学の研究者として知られる尾上柴舟(1876-1957)が、書道界、特に仮名の世界に果たした役割は大きいといえるでしょう。

     

    明治9年に生まれた柴舟は、明治のなかごろ、復興和様の時代から書に関心を持ち、大口周魚に師事して近代的な雰囲気を感じながら古筆研究に取り組みました。
    明治21年に設置された御歌所は、高崎正風を所長として阪正臣や大口周魚など能書で知られる人たちや平安古筆の研究者として知られる人たちが集まり、平安時代に倣った歌や書が流行します。江戸時代は平安古筆をみることも難しい時代。近代を迎えて写真版の印刷物が出版されたり、田中親美の複製事業が行われたり、茶の湯が盛んになって茶掛けとして古筆が尊重されるようになったりと、文化全体として王朝趣味が盛り上がりました。
    柴舟は、明治30年代に大口周魚の計らいで、「桂本万葉集」の写真を印刷したものを見たといいます。大変貴重なものとして柴舟の眼に映ったのでしょう。その柴舟が主張したのが「粘葉本和漢朗詠集」をはじめとする古筆を忠実に再現する古筆至上主義。
    また、文検において柴舟が試験委員を務めたことによって、中等教育における模範になり、平安古筆を基本にするスタイルは多くの書道人に浸透し、定着していきました。

     

    尾上柴舟「はとば」

     

    今回紹介する作品「はとば」は、亡くなる直前の栴檀社展の出品作。波模様を摺り出した唐紙に自詠歌を書いています。
    平安古筆のなかでも「粘葉本和漢朗詠集」を特に重視し、古筆と見紛うような作品も手掛けた柴舟ですが、晩年は、「元永本古今集」や「石山切」などに心惹かれ、渋みの加わった表現を求めていったようです。古筆に対する評価が次第に変化し、実作にも反映されている様子がわかります。
    教育的な指導、テキストという点においては「粘葉本和漢朗詠集」を尊重したのだと思いますが、柴舟のすぐれた技量と研究は広範囲にわたり、非常に豊かでした。柴舟は語学にも長け、中国小説などを原文で楽しんでいました。幅広い教養を身につけていた柴舟が最も尊重したのはやはり平安古筆であり、作品にはその意志が凝縮されていると言うことができます。

     

    柴舟が晩年を迎えた戦後、展覧会を中心とする書壇は活発化します。柴舟も大正3年の東京大正博覧会で最高賞の銀牌を得たことによって脚光を浴びたように、展覧会で立場を築くことが一般化していきます。柴舟は展覧会で立場を築いた最初の人と言ってもいいかもしれません。

     

    誰もが認める存在であった柴舟でしたが、晩年にはその様式や考え方に対する対立的な意見もみられるようになりました。

     

    大字仮名運動の中心を担った安東聖空は、「「古筆切」は冊子や巻子における繊細な美の表現であるのに対して、私は壁面に「大字かな」をもって、さらに強く日本的な美を打ち出すことを意図した。いいかえれば机上の美を壁面に移すこと、この事によって「かな芸術」の新天地を、この様式の変革に求めたのである。」(『聖空作品集』、二玄社、昭和40年)と語り、上田桑鳩は柴舟について「仮名の舞台は今大きく廻るべき時期に到達している事だから、氏は新らしい人々にバトンを渡して委すがよいと思う。」(『書品』第12号、昭和26年)と述べています。

     

    大きな会場に合う大きな作品を望むようになり、柴舟の求める「粘葉本和漢朗詠集」風の細字を巻子本や冊子本に仕立てる様式は古いものであるという認識になっていったのです。

     

    しかし、大字仮名を推称する人たちが尊重するのも結局は平安古筆であって、柴舟が築きあげた古筆研究が基盤になっています。時代の流れのなかで表現様式は変化していきますが、平安古筆を規範とする姿勢は変わりません。古筆至上主義の柴舟が数多くの平安古筆を取り上げたことによって古筆研究の基盤が築かれ、その精神はその後の書家にも受け継がれているといってよいのではないでしょうか。改めて柴舟の行った研究や書作品、その存在を見つめ直したいですね。(田村彩華)

     

     

    尾上柴舟「はとば」共箱

     

    【掲載作品】成田山書道美術館蔵
    尾上柴舟「はとば」 昭和31年栴檀社展 彩箋墨書 一幅 31.0×40.2㎝ 杉岡華邨氏寄贈

  • 25、尾上柴舟、田中親美、鈴木梅渓

    25-2、田中親美 「平家納経」法華経見宝塔品第十一(副本)

     

    平安古筆や写経、絵巻など数多くの複製制作や鑑定、切断などを手掛けたことで知られる田中親美(1875-1975)を代表する仕事のひとつに「平家納経」の複製事業があげられます。この33巻および古美術複製につくした業績に対して芸術院賞恩賜賞を受賞しました。

     

    厳島神社宮司高山昇の提案に応じた益田鈍翁をはじめとする多くの数寄者の援助を受けてはじまった「平家納経」の副本制作は、大正9年から5年かけて完成しました。親美は、優美な金具が施された表紙や軸や露、見返し絵や料紙は表裏ともに意匠をこらし、紐や装丁に至るまで精巧に再現しています。さらに肉筆の文字まで手掛け、一具を厳島神社に納めました。その後何度かに分けて複数組制作し、益田家や大倉家、安田家に納められ、現在は東京国立博物館に益田家伝来の模本が一組、大倉集古館にも大倉家のものが納められています。

     

    今回紹介する「平家納経」法華経見宝塔品第十一は、宝珠ひとつに一文字ずつ書写し、紙背には葦手や四季の草木を描いた特に豪華な一巻です。

     

     

     

     

     

     

     

    紙は越前五箇荘で特別に漉いた純鳥の子を用いています。表と裏を別々につくって合わせるため、特に薄いものを注文し、4度やり直してもらったといいます。この薄い紙を扱うのも大量に染める作業も至難の業。藍や紫、丁子などの植物を煮出しては繰り返し染め、染色屋のような作業を続けたといいます。
    さらに箔や下絵などの装飾は、原本の金箔や銀箔の配置を、丁寧に硫酸紙に写し取ることから始めます。切箔、野毛、砂子も金と銀にわけて、描き文様、地文様、葦手など、分解式に別々に写しとっていきます。それを下敷きにして本紙を上にあてて礬水を引き、本紙が濡れて半透明になることで浮き上がってきた文様の通りに切箔や野毛、砂子を置いていくのです。言う分には簡単ですが、これも手間のかかる作業です。料紙だけでどれだけの時間を費やしたのでしょう。色味はどうしても原本を見なければ忠実に再現できず、数本ずつ借りて確認しながら作業を進めたようです。
    竹田道太郎氏によると、宝塔品の本紙の裏は葦手を描いた豪華なものですが、着手するはじめの膠がほんのわずか甘かったために、完了間際になって一部分剥落してしまったといいます。親美はどんなに僅少の差であっても見逃がすことはできず、初めからやり直したそう。親美の模本作りにかける執念が感じられるエピソードです。

     

    料紙が完成すると次は文字を写していきます。絵を写すのには弟子の力を借りたようですが、書は親美の仕事。写真を原寸にして紙の近くに置き、何度も確認し、眼に書を焼き付けながら本紙に書いていく作業を繰り返しました。

     

    昨年、東京国立博物館で開催された「田中親美平家納経模本の世界―益田本と大倉本―」展では、この宝塔品の益田本と大倉本とを比較した展示が行われていました。

     


    東京国立博物館蔵 平家納経模本 宝塔品 第十一(益田本) 図録より転載

     


    東京国立博物館蔵 平家納経模本 宝塔品 第十一(大倉本) 図録より転載

     

    成田山書道美術館蔵 平家納経模本 宝塔品 第十一

     

    このように3巻並べてみると箔の大きさや配置、細かな装飾まで、どれも同じようです。念入りな準備から慎重な作業が進められていたことがわかるでしょう。また文字の出来栄えは、写しとは感じさせないほど完成度の高いものです。

     

    国宝「平家納経」は昭和47年に大規模な修理が行われましたが、巻が太くなったため、もとの国宝「金銀荘雲竜文銅製経箱」に納まらなくなってしまいました。修復前に制作されたこれらの副本は、もとの姿を知ることのできる貴重な資料といえるでしょう。(田村彩華)

     

    【掲載資料】成田山書道美術館 松﨑コレクション
    田中親美作「平家納経」法華経見宝塔品第十一(副本) 一巻 大正時代 彩箋墨書 26.0×330.4㎝

  • 25、尾上柴舟、田中親美、鈴木梅渓

    25-3、鈴木梅渓「臨書帖」、絶筆「和漢朗詠集」

     

    鈴木梅渓(1887-1973)は、教育者と書家としての二つの顔を持ち、田中親美に師事して古筆の研究をしていました。
    親美とともに開催した古筆講座では、梅渓が解説を担当。区切り区切りで親美に確認し、親美が大きくうなずき、進行していたといいます。弟子は取らなかった親美ですが、梅渓のことは信頼していたのでしょう。親美の編集による『瑞穂帖』の解説は梅渓が手掛け、題字及び題簽、古筆の極札も梅渓によるものです。時に親美の右腕となって活躍しました。

     

    梅渓は書の研究において「先ず第一に眼を養うこと即ち書の鑑賞を行なって、書に対する知識を深め批判力を養い更に豊かなる情操を涵養して、おのれの書の理想像を作ることが極めて大切である」と述べ、鑑賞のことを「手習い」に対して、「目習い」と呼び、その両方が揃わなければ優れた書は生まれないという考えを示しています。模写はその両方の効果を持つとして推奨し、生涯続けました。

     

    これは梅渓が古筆を模写した「臨書帖」です。

     

     

    当館には、大正12年から14年にかけて制作された臨書帖があり、「本願寺本三十六人家集」や「高野切」「元永本古今集」「寸松庵色紙」など全29帖が確認できます。

    料紙の模様や切箔、紙継の部分は丁寧に鉛筆でかたどり、虫喰いの跡まで鉛筆や毛筆で丁寧に書き込んでいるものもあります。また、飛雲の装飾は墨の濃淡を利用して描いています。細部まで気を配り、原本の姿を忠実に再現しようとした様子がうかがえます。

     

    上:飛雲 左下:虫喰い 右下:切箔

     

    この方法は複製本を数多く手掛けた親美による影響が大きいと思われ、親美の精神を受け継いでいるようです。

     

     

    「寸松庵色紙」の臨書帖は29枚あり、題簽から大正12年1月20日に書き終えたことがわかります。

     

     

     

     

    田中親美による複製本が発行されたのと同じ年で、梅渓の模写したものと綴じてある順番と枚数とが一致します。
    「寸松庵色紙」の原本と田中親美の複製本は行のゆれ方や字形がやや異なり、多少の違いが見受けられますが、梅渓の模写と親美の複製本と照らし合わせるとみごとに一致します。

    鈴木梅渓「寸松庵色紙」模写

     

    左:原本と梅渓模写 右:親美複製本と梅渓模写の比較

     

    梅渓が親美の複製本をもとに模写をしていたことがわかると同時に、梅渓の忠実な臨書態度に感心します。
    梅渓は、「模書によって墨の濃淡、渇筆はもちろん、紋様、虫喰いの跡迄、原本のまま写して、その気分を味わい得た時に、その用紙や墨の種類、用筆等委しく研究が出来るようになり、従って筆者の文字を正確に把握することが出来」るといい、この考えを実践していたことがこの「臨書帖」からわかるのです。

     

     

    また、梅渓は親美の料紙を大切に保管していました。
    親美の料紙はよくすべるからといって使わない時期もあったようですが、亡くなる4日前、親美の唐紙に書きたくなり、「和漢朗詠集を唐紙六十六枚に書いて田中親美先生にお目にかけなければ」(『鈴木梅渓の思いで』)と、いきなり墨を摺って書き始めたといいます。しかし、残念ながらそれは叶わず、梅渓が亡くなってから妻ちをが親美のもとへ届けました。こちらが絶筆の「和漢朗詠集」9枚です。

     

     

     

     

    骨格のしっかりとした厳格な書で、古筆を学んだ梅渓ですが、独自の風を確立しています。
    この作品を見た親美は「これは大変に出来がよいね」と褒めたといいます。このことからも梅渓と親美は互いに認め合い、強い信頼関係にあったことがわかります。親美は梅渓の腕前も考え方も評価していました。

     

    親美から指導を受け、積極的に古筆研究に励んだ梅渓は、古筆の尊さや良さを後進にも伝えたい、という強い意志があったのでしょう。古筆の魅力を分析して、自ら『てかがみ』を出版し解説も手掛けています。

     

     

     

    今週は、尾上柴舟、田中親美、鈴木梅渓3人の作家を取り上げました。
    柴舟と親美はともに大口周魚からの影響を受け、『書道全集』の編集にも携わり、学術面において重要な役割を果たしました。また、梅渓の古筆研究の出来栄えを認めた柴舟は、『書道全集』(戦前版)の平安朝仮名解説を依頼しており、その力量を評価していたようです。親美と梅渓は先に述べたように、師弟関係でもあり、互いに認め合う存在でもありました。
    この3人は相互に影響し合いながら、それぞれの研究や役割を担っているように見受けられます。特に平安時代のものに強い関心を示している点においては3人に共通するでしょう。平安古筆をはじめとする日本の書の普及に尽力した彼らの功績は大きいといえるのではないでしょうか。(田村彩華)

     

    【掲載作品】成田山書道美術館蔵
    鈴木梅渓「臨書帖」
    鈴木梅渓「和漢朗詠集」 六曲一双 彩箋墨書 各26.8×38.5㎝