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  • 9、革新的な表現

    9-1、革新的な表現 上田桑鳩

     

    近代を迎えて毛筆が手放され、大正時代の終わりには展覧会における書作品の発表が一般化します。毛筆は日常を離れ、書も伝統芸能化していきます。さらに戦後の民主主義思想や高度成長は個人主義的な創作活動を促し、書道史上においてもそれまでに存在しない革新的な表現を誕生させることになりました。

    今回は、そういった革新的な表現にフォーカスします。初回はその流れの先陣をきった、上田桑鳩(明治32年‐昭和43年/名は順/生まれは兵庫)です。

     

    桑鳩は、戦前の書道界に新たな潮流を生んだ比田井天来の弟子第一号として、門下に集まる猛者連を束ね、リーダーシップを発揮しました。昭和8年には書道藝術社を興し、師が他界した翌年、昭和15年には奎星会を設立しています。桑鳩は、書における造形の問題に正面から取り組み、制作の中心にはっきりと据えています。

     

     

    「青山近落葉」は紙に墨で秋の情景を詠んだ漢詩を書いた扁額作品です。半切を横に使用して和額に仕立てた作品で、様式的には戦前の漢字作家の作品と異なるところがありません。しかし、見ての通り、その内容は刺激的なものです。

    始筆から割れた穂先を気にすることなく、書き進めています。先が不揃いの箒のような、紙を丸めたもののような、竹筆のような、そんな筆致です。また、落款には大きく「九」とあり、その内側に朱文方印を捺しています。この筆記用具では小さく「鳩」の字を書くことができなかったのでしょうか。もしかしたら、その場の求めに応じて手近な用具によって即興で仕上げたのかもしれません。

    字の配置は「落」を中心に一字一字の間を大きくとり、文字を上下に躍らせています。漢字を散らし書きにした作品には、昭和25年の日展出品作「寒江」や昭和27年の日展出品作「開窓青山近」などがあります。この作品もそれらと同時期のものと考えられます。

     

    さて、桑鳩は昭和26年の日展に「愛」という作品を出品したことがよく知られています。孫のハイハイする姿を「品」とも読める形に託し、「愛」と題した作品は、書は文字を書くものというそれまでの常識からは大きくはずれるものでした。しかしその作品の面白さは、タイトルを読ませることで作品がみえてくるところにあります。

    また、晩年には顔料を用いた「鳳」や「花鳥」などといった作品もあります。

    こうしてみると、桑鳩は「造形的にそれまでにない動きを加えること」「タイトルと表現とのあいだに敢えてズレを加えること」「それまで使われることの少なかった用具用材を用いること」などを通して、それまで書家が見たことのなかった地平を切り拓こうとしたのでしょう。

     

    革新的な発想は時に受け皿の枠組みを超越し、私たちに「書とは何か」と問いかけてきます。(谷本真里)

     

    【ご紹介した作品】
    「青山近落葉」 一面 33.0×132.4

  • 9、革新的な表現

    9-2、革新的な表現 比田井南谷

     

    昭和21年、比田井南谷(明治45‐平成11/名は漸/鎌倉の生まれ)は「まだ書道展に出す勇気」がなかったという画とも書ともいえない作品を、現代美術協会展に出品しました。前衛書の嚆矢といわれる、作品1「電のヴァリエーション」です。それが皮切りとなって、時代を画する前衛的な書の芸術運動が加速度的に進展します。

     

    南谷は、鍛錬された線にこそ書の芸術的本質を見出せるとし、用材は単なる媒体に過ぎないと主張しました。その理論を立証するかのように作品を制作していきます。

     

     

    この「作品67-11」は、昨品67シリーズのうちの一点です。ベニヤ板に鳥の子紙を貼り、地塗り剤で下地を施し古墨で書いたものです。アクリルのマットニスで上塗りされた画面はとても丈夫で、独特の光彩を放ちます。

    また、注目すべきは線の抑揚や運筆による穂先の流れをはっきり捉えることができるところです。一般的な書では使わないような用具用材を使いながら、いかにも書らしい線を表すことに成功しています。紙に墨で書くよりも、むしろ毛筆特有の線質を際立たせています。

    また、文字ではありませんが、左上から右下に向かって書き進めていくという法則に沿っていて、時間性も感じます。この作品は「居延漢簡」にある人の顔のような符号をヒントにしたと言われています。文字にヒントを得ていていますが、それはあくまでも文字ではありません。

    こうした南谷の手法はすべて「線」を際立たせるための手段のようです。意図された手法で、鍛錬された線をもって書作品としているのです。

     

    この作品が発表された昭和42年の個展を境に、南谷の作家活動はおおむね休止状態となります。最晩年は作品制作よりも、書学院における出版事業や天来記念館設立などの啓蒙活動、カリフォルニア大学収蔵の約千種の古碑帖拓本の調査研究などに全力を投じるかたちで書に没頭しました。昭和62年に刊行された『中国書道史事典』も集大成の一つです。そういった姿勢もまた、芸術家南谷としての存在を際立たせています。(谷本真里)

     

    【ご紹介した作品】
    「作品67-11」 昭和42年 個展/昭和43年 書道・墨の芸術展   一面  73.0×103.0

  • 9、革新的な表現

    9-3、革新的な表現 大澤雅休・竹胎

     

    昭和8年、「現代に活きて居る吾等には自ら現代の書がなければならぬ」として書道藝術社が結成されました。そこには多様に現代書を求める者たちが集まりました。いわゆる前衛書の二大潮流もそこに端を発します。上田桑鳩(9-1でご紹介)を中心に昭和15年に設立された奎星会と、大澤雅休を中心に昭和13年に設立された平原社です。

     

    大澤雅休は、俳句を村上鬼城に学び、大正5年には『ホトトギス』に詩や小説を発表、アララギの会員となりました。同11年には短歌の結社を主宰し、『野菊』を発行します。本格的に書に取り組みはじめたのは40歳も間近、比田井天来に入門したのは43歳のことです。農村の民衆に密着して「人の内面の表出」を意識し、現代人のありのままの姿を作品に投影しました。雅休はことばによる繊細な感情の表現を大切にしています。

     

    「朝薺暮塩」

     

    この作品は自身が好きな言葉を書いた、最晩年のものと考えられます。「朝に塩づけの野菜を食べ、晩に塩をなめる」とは、農村に懸命に生きる人びとの生活を思わせます。濃墨を使い、それぞれの画が力強く、個を主張しています。群による力で全体の紙面を支配する作風は、見るからに圧力があり、ソウルフルです。

    第6回書道芸術院展出品作「淵黙雷轟」や、現代書に疑問を呈したことでよく知られる「黒岳黒谿」にも通じる作風です。

     

     

    大澤竹胎は、雅休の一回りほど年下の弟です。25歳で高塚竹堂に入門して主に仮名を学び、比田井天来・小琴にも益を受けました。一時は門弟数百人を数えるほどでしたが、「書家は教えては作家になれない」とし稽古場を閉鎖、制作に集中しました。雅休とともに平原社の核として働き、棟方志功と出会ったことで、板画と書を融合させた作品を手掛けたりもしました。

     

    「とりがなく」

     

     

     

    理念を先行させる兄に対して、竹胎は感覚的で抒情豊かな作品を数多く遺しています。題材は日本の詩歌が多く、この作品も万葉歌を単体で書いています。雅休や竹胎は、王朝的な叙情性よりもいまを生きる人びとの内面を投影する力強い言葉を選んでいます。大内魯邦が「先生は子供を愛し、童書の美を高く評価しておられた」と伝えるように、竹胎童子は「万年童心でありたい」と願う、素直で純粋な想いを作品の前面に出しました。制作意欲は旺盛で、「誰が何といっても止められなかった」といいます。そういった感性が、竹堂のもとで学んだ仮名と相まって、独特の書風を築いています。

     

    両者ともに文学や絵画、音楽、さらには教育や農業問題に造詣が深く、あらゆる手段で自己の感興の表現を試みました。なかでも書による表現を最善のものとして選択し、現代に見合う書を模索しました。古典に内在する美や要素は、彼らのなかで再構築され、融合し、時として稚拙とさえ思える作品を生みだしますが、それは決して彼らの精神に反するものではありませんでした。

     

    雅休の率いた平原社では、自らの肌で感じる時代の空気を作品に刻み、大衆的なヒューマニズムを尊重しました。やがて大澤雅休は昭和28年、竹胎は同30年に亡くなります。しかしながら彼らが築いた流れは、その後の昭和33年から昭和43年にかけて開催された毎日前衛書展の動きにもみられるように、時流を先導したのです。1960年代には百花繚乱のごとく前衛的な書が花開きます。(谷本真里)

     

    【ご紹介した作品】
    大澤雅休 「朝薺暮塩」一面 57.9×54.1
    大澤竹胎 「とりがなく」一幅 20.8×47.7

  • 9、革新的な表現

    9-4、革新的な表現 武士桑風

     

    武士桑風は、大澤雅休率いる平原社の機関誌「平原」(昭和23年創刊)に、第二号から臨書観などを執筆寄稿しています。当時はまだ20代後半。雅休は「人格の平等、自由、人格尊重、文化の尊重、生産とは物をつくりだすこと」と主張しており、若かりし桑風の活躍は会の理念を象徴するものがありました。

    桑風は長寿を得たことで、書における前衛的な表現の胎動から隆盛、そしてその後の時代をリアルタイムに生きています。自らも昭和43年に現代書作家協会を興して、現代書展や現代臨書展を主導しました。昭和32年に発足した日本前衛書作家協会の趣意書にもみられる「前衛運動の更に活発な展開を促進するため」でしょう。また、たびたび開催された大澤兄弟の回顧展にも尽力しています。

    桑風は、大澤雅休歿後の遺作における日展陳列拒否問題について、豊道春海と激しい論争を巻き起こしました。なぜ雅休の作品が陳列されないのか、ひいては「書」として扱われない理由を求めたのです。平原社を代表して矢面に立ったのが桑風でした。その論争は明確な回答を得られぬまま、ついに雅休の遺作が日展の会場に並ぶことはありませんでした。

     

     

     

     

    この作品は、生涯繰り返し題材にされた「神話」シリーズの一つです。表現としては晩年に多い、濃墨による渇筆を多用かつ幾多の線を重ね合わせたり独立させたりする、画のような作風です。紙面全体にわたり線を引きます。人や神らしきものを対象とした造形に「命」が宿るようです。紙面の外へ伸びていくような線は、独特に広がりのある世界観を描きます。

    4回にわたってアップした「革新的な表現」のテーマ中では、もっとも抽象性が高い作品といえるでしょう。あきらかに文字から距離を置いています。米倉守氏が「行動としては文字の根源的な性質を求めようとする実験」というように、文字ではない何かを書いているのですが、練り上げられた線には書の特質を見出だすことができます。

    非文字の領域に足を踏み入れた同世代の比田井南谷は1980年代に入ると極端に作品発表の数が減少します。一方の桑風は最晩年まで活発に作家活動を展開します。その背景には、雅休の日展陳列拒否問題があるのかもしれません。一見、既存の書の概念の対極にある造形を生み出し続けることで、現代社会における書の領域、さらには「書」というものの核のありかを問い続けていたように見えます。

     

    「書」とは何故に「書」といえるのでしょうか。

    「品」のような形を書いた上田桑鳩の「愛」にしても、磨崖の岩肌を思わせる墨の飛沫による大澤雅休の「黒岳黒谿」にしても、それまでの書の概念に大きな変更を迫る作品でした。

    9-2でご紹介した比田井南谷の「心線作品第1・電のヴァリエーション」について、千葉市美術館は「戦後の造形芸術全体の中でも重要な意味を持つ」と評価します。今日の書が「芸術」として位置づけられ、いわゆる伝統派も前衛派も、「造形」を意識していることは明白です。

    近年、世界的な美術史再構築の流れのなかで、こうした前衛的な書の一部は世界市場に流失しているといいます。令和という新しい時代を迎え、こうした書における検証と再評価が特に求められているように思えてなりません。(谷本真里)

     

    【ご紹介した作品】
    「神話」平成11年現代書作家協会展 一面 178.2×178.2